仏話を聞く。演劇部に行く。


 土曜日、義理の祖父の葬儀。現福寺の福島聴空住職の仏話を聞く。


 戒名は、自身でつけることはできない、と住職は言う。仏になるためには、釈尊の教えを受け継いでいる僧侶に、いわば弟子入りをして、その戒めを自らのものにしなければならない。僧侶が僧名を自分で決めることができないのと同じように、死者は戒名を僧侶から授けられることによって、仏弟子の列に連なることができる。といったことを教えていただいた。


 聴空住職は、僧侶であるとともに「カエル本舗」という「ホーメイ」のユニットを結成して活躍なさっている方で、仏話も流暢で、いい意味で落語を連想させる喋り方だった。HPにはユーモラスな写真もアップされている。そのせいかオイラは「そういえば落語家の名前も師匠がつけるよなあ」ということをぼんやりと思ったのだった。


 いや落語だけではない。「名前をつける」という行為は、学びを起動する手続きとして、古来意識・継承されてきた。名づけは、修行者としての「生」が始まる象徴的なイベント。師や学びに身をあずけて没入することが、奥義を極め悟りを開くための近道。そのことをオイラが意識したのは、内田樹の「先生はえらい」を読んでからだった。


 内田樹は、学ぶためには師が必要だと説く。学びの主体は、メッセージを受信する側にあり、師の一挙手一投足に意味を見いだそうという姿勢が学ぶ側にあれば、学びは起動するという。これは、高校教育の現場が、どこかに忘れてきた視点だろう。学校は近代的な制度だから「名前をつけたり」「師匠=弟子」の関係を結んだりすることはない。


 ただしオイラの勤務校の演劇部では本名以外に「呼び名」がある。演劇は前近代的システムなのだろう。勤務校の演劇部には、こうした構造が知らず知らずの間にできあがっていることにオイラは気づき、ちょっと驚かされたのだった。



先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


 日曜日は、演劇部に行く。


 11月23日の公演まであと2週間もない。高校生は、段取りを「こなす」ことに懸命になっていた。オイラは言った。「段取りを入れることが立ちではない。段取りを忘れてもいい。必要なのは、舞台の上で生きること。余計なことは考えるな。他者を意識し、無心で反応するべし」としゃべりながら、仏教における「悟り」と重なるところがあるなと思った。心を穏やかにして、うまく演じようという煩悩を振り払い、ただ無心にその場所の空気に身をゆだねることこそが、よい芝居を作るうえでの必要条件だと思うからだ。


 感情解放の苦手な部員に、かなり長い説諭。「できない、分からないと言うことは、できない言い訳を探すようなもの。芝居のうまい下手は関係ない。自分の殻を破ろうとする気持ちが大切。正解なんてない。舞台の上では、何をやってもかまわない。自分を捨てて表現してみようと考えることが、自分の感覚や感情の幅を広げていくきっかけになる」


 正直時間との競争になりつつあるが、今日も段取りは後回し。「この段取りをこなせばできるから大丈夫。とにかくこうしろ」といった稽古はやりたくない。そもそもこれをこなせば芝居ができる方法など、オイラは持ち合わせていない。高校生に段取りを教えると、普段から正解を与えられることに慣れているせいなのか、段取りをなぞっていくことで安心して思考停止する傾向にある。


 芝居は奥が深く、無限の段階があり、求める者には無限の可能性が開かれていることを、演劇に取り組む高校生にオイラは気づかせたいと思う。