「三年B組金八先生」第二シーズン23話・24話「卒業式前の暴力」その1


3年B組金八先生 第2シリーズ(9) [DVD]

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 「ヤンキー的リアリズムを備えた教育者」と言えは「ヤンキー先生」がすぐに思い浮かぶが、金八先生もその一人であるということに気づかされたのは、斎藤環「世界が土曜の夜の夢なら−ヤンキーと精神分析−」を読んだからだった。


 斎藤環は、教育者の「ヤンキー的リアリズム」を構成する要素として「体当たり的行動主義」「反知性主義」を挙げている。このエントリを書くために、第2シーズンの23話・24話「卒業式前の暴力」を見たが、金八先生のみならず、登場人物のそれぞれが「体当たり的」で、ストレートで気持ちの乗ったセリフが横溢していて、ドラマ「金八先生」そのものが「ヤンキー的」なのだと実感したのだった。


 もっとも、オイラは「3年B組金八先生」をあまり好きではなかった。最大の理由は、体当たり主義のうさんくささにある。体当たりで熱く生徒にぶつかれば、どんな問題も解決できるというドラマの方向性は、教師として現実の様々な問題に直面せざるをえなかったオイラにとって、あまりにウソっぽく、絵空事に思え、感情移入ができなかったのだった。


 斎藤環は言う。「(体当たり的な行動主義が)しばしは、過度に情緒的であるがゆえに反知性主義と結びついて、いっそう無鉄砲な行動に向かわせがちである。彼らは−ある種のタテマエとしてかもしれないが−ことさらに理論や検討を軽視する、あるいは軽視というパフォーマンスをこれ見よがしにしてみせる(「世界が土曜の夜の夢なら/147ページ」」


 斎藤は、日本の「ヤンキー的リアリズム」のドラマの特徴を明らかにするために、海外の教師もののドラマと比較してみせる。(「いまを生きる」「陽のあたる教室」「コーラス」)。これらの作品には「厳格な管理教育に対する批判があり、人間くさい教師と生徒たちの心温まる交流が描かれている」「しかし重要な違いは、生徒の向上をうながすものが、単なる教師との信頼関係のみならず、「詩」や「演劇」、あるいは「音楽」といった知的営為なのだ」「背景にあるのは、自由で自立した個人であるためには、何からの知的スキルの向上が不可欠であるという信念ないし常識である」「おそらくこれこそが、わが国における「熱血教師もの」に欠けてる視点ではないか(149ページ)」という指摘は非常に興味深い。


 愛と信頼が世界や人を変えるというプリミティブな予定調和の物語は、日本社会で好まれる「ヤンキー的リアリズム」だ。その後も「スクール☆ウォーズ」「GTO」「ごくせん」等、「体当たり行動主義」の学園ドラマは、繰り返し作られ、人気を博した。その延長線上に、先に触れたヤンキー先生もいる。しかし、作られた多くのドラマは、クオリティが低く、情緒的に流れ、ツッコミどころ満載だったために、まともに論評されることが少なかった。それは、下位文化としかみなされないヤンキー文化の不幸とも重なる部分である。


 だた、振り返ってみれば、金八先生の社会的影響力は大きなものがあった。「金八先生のような教師になりたい」という言説が横行したぐらいだから、日本における教師の理想的なイメージを形作ってきたと言っても過言ではない。金八先生は、1980〜90年代における教育問題について考える糸口になる。


オイラも自身もまた、「愛」や「信頼」、「気合」や「熱意」を前面に掲げて、体当たり教師のスタンスで教員をやっていた。まあ若かったこともあったのだが。


「「卒業式前の暴力」その2」はこちら
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20121016/1350400715