義家弘介「ヤンキー母校に生きる」文藝春秋社


ヤンキー母校に生きる

ヤンキー母校に生きる


 (引用はじまり)
 私は単純で不器用な教師である。だから生徒たちとはいつも、まっ正面から向き合っている。技術がないのもあるが、それは私の信念でもある。
 そんな私を見て、よく外部で出会う先生方は、「直球だけではなく、変化球も覚えなければ、今は若いからいいけれど、そのうち通用しなくなる」と言って助言してくれる。
 私はそんなアドバイスを聞くたびに、「ハ〜」とため息をつく。
 私が生徒たちに投げる「思い」とか「情熱」という名の直球は、生徒を「打ち取る」ためのものなどでは決してない。私が生徒たちに投げる「思い」とか「情熱」という名の直球は、生徒に「届けたい」気持ちに他ならない。
 だからそのボールは剛速球でなくてもいい。ヘナチョコボールで十分である。
 私の思いが届かないのなら、いつでも打ち返してくれればいい。ホームランを打ってくれても構わない。それでも私は、一生懸命、真っ直ぐな直球を投げ続けるから、その心に届くまで・・・・。
 私は幼い頃、大人たちの投げる「変化球」にいつも傷つきながら生きてきた。変幻自在に私の心の内側に入りこみ、そして「大人の理屈」で説き伏せる。そんな繰り返しの中で、私は大人たちに対して完全に心を閉ざしてしまった。「お前らのズルイやり方はわかっている」と。
 子どもたちに投げかける「教育方法論」という名の変化球は、いつも子どもたちを惑わせる。本当は何が言いたいのか? そんな疑問を抱かせる。
 私は心ある大人たちの直球によって救われた。何万回も、何十万回も、淡々と届けられ続けた直球だけが、心を閉ざした私の中に、温もりや勇気を与えてくれた。
 時代が複雑になればなるほど、子どもたちが多様化すればするほど、我々教育に携わるものは、原点に立ち返るべきであると思う。
 大切に思う子どもたちに投げかける純粋な思いは、決して曲がったり、落ちたりするような性質のものではないはずなのだから・・・・(312ページ)。(引用ここまで)


 本書を読んで、もっとも心に残った一節。「ボールは剛速球でなくてもいい。ヘナチョコボールで十分」。オイラのような発展途上の教員にも、希望と勇気を与えてくれる。オイラも直球を投げたい。


 勤務校の演劇部で、「ヤンキー文化」を視野に入れた芝居を作っているきっかけで本書を読む。2003年初版。「ヤンキー先生」こと現在自民党参議院議員義家弘介が、1999年から数年間、母校である北海道の北星学園余市高等学校の教員をしていた頃の教育実践を綴った書である。


 まっとうな若き高校教師が、問題を抱えた高校生と真剣に格闘した教育実践記録である。心に傷を持つ生徒達と同じ目線に立ち、泥だらけになりながら次々に起こる問題に立ち向かっていく。北星学園余市高等学校での義家弘介の数年間は、かけがえのない瞬間の積み重ねだったと実感できる。同じ教師として、このような教師でありたいと思う。


 ここからは批判になる


 ただ、それがヤンキー先生こと義家弘介の実績としてのみカウントされることには違和感が残る。本人も書いているように、この実践は、北星学園余市高等学校の「教師団」の実践だと思う。舞台となる北星学園余市高等学校は、日本で初めて、全国の高校中退者などに門戸を開き、心に傷を持つ高校生の受け皿として再生した高校で、現在でも高校中退者が全校生徒の40%、不登校経験者が約60%近く、寮や下宿で生活する生徒が9割近くを占める※1。本書を読む限り、この学校の教師団は、民主的で連携がとれ結束が固く、非常に困難な問題にも常に前向きに取り組んでいる。「ヤンキー先生」という、非常にトピックなキャッチフレーズのおかげで、義家弘介ただ一点が注目されるようになったのは、ある意味残念なことである。


 よく知られていることであるが、義家弘介は、その後変節する。平成17年春、義家は北星学園余市高等学校を退職する。理由は、義家が講演業などに精を出し(年収3500万!)、教師としての本職がおろそかにされているのではないかとPTAなどから批判が相次いだためと言われている。また、教員時代は、「しんぶん赤旗」や「世界」などで、国旗・国歌の押しつけに反対していたのに対し、自民党から参議院議員として当選し安倍政権の教育再生会議の委員就任後は、あれは教職員組合によって言わされていた、と主張し「自民党保守派の教育言説の象徴として(かつて自分が世話になったはずの)日教組北海道教職員組合を叩いている」※2。


 斎藤環は「世界が土曜の夜の夢なら−ヤンキーと精神分析−」の中で、義家弘介の変節を「ヤンキー主義の、自由主義集団主義(家族主義を含む)の奇妙な折衷」という視点から明快に読み解いている。具体的には、帰属する集団の選択に関しては自由主義的に振る舞い、ひとたび集団が選択されて以降は、集団主義が優位になる、というヤンキーに見られる行動様式だという。それはとても興味深い考えなのだが、そこまでいかなくとも、いい先生だった人が、管理職になった途端、手のひらを返したように、今までと反対のことを言い始める、などというのは、教員世界ではよくある話である。


 居場所が変わると、その居場所の論理に過剰適応して、考え方まで変えてしまう。マシンになる。せめて自分の葛藤を口にしてくれたら、人間的であるのに。これは「カジムヌガタイ」を読んだときにも思った感慨である。国家をカサに着て、個人を不当に抑圧し、状況が変わったら「責任はない」「仕事でやった」と言う。沖縄・東村高江でヘリパッド建設を強行する防衛局の方々もそうだ。ドキュメンタリー「標的の村」では、座り込む東村高江の人々を無視して、防衛局の方々が、工事を強行しようとする姿を映し出している。防衛局の方々に問いたい。あの姿を自分の子供に果たして見せることができるのか。


 少なくともオイラは、尊敬される、意味のある仕事をしたい。そう思っている。


 ※1ウィキペディア北星学園余市高等学校」より
 ※2後藤和智「「ヤンキー先生」とは「何だった」のか」(「ヤンキー文化論序説」所収)から引用しました。またこの段落の義家氏の変節についても、本稿の内容を参考にしています。


ヤンキー文化論序説

ヤンキー文化論序説