第26回高知県高等学校演劇祭その3


第26回高知県高等学校演劇祭 その1
第26回高知県高等学校演劇祭 その2
第26回高知県高等学校演劇祭 その4
第26回高知県高等学校演劇祭 その5
第26回高知県高等学校演劇祭 その6
第26回高知県高等学校演劇祭 その7
第26回高知県高等学校演劇祭 その8


5 安芸高「心体検査」作/タケモト ヒカル


 保健室に集う生徒と男性養護教諭の交流。彼らがそこにいる幽霊の女生徒と出会うことによって癒されていくコメディ・タッチの作品。


 長いドラマをよく書いたと思う。いろいろな人たちが集う保健室という場所の設定も悪くない。台本としての構成がきちんとしている。登場人物の個性の書きわけもできている。男の養護教諭というのも意表をついて面白い。もっとも、養護教諭の姿が、投げやりな高校生そのものの振る舞いだったのは工夫不足。もう少し作り込んだ方がバランスがいい。書きつづけてほしいと思う。 


 問題点をあげておこう。この作品もセリフが説明的な箇所が多い。何でもセリフで説明しようと思わないこと。セリフは削れるところは削ろう。セリフの代わりに、役者の振る舞いや動作の描写を入れよう。それは演技者の動きをイメージしながら台本を書くということでもある。


 誰も描いてないような世界や事件を描こう。幽霊が出るという設定は、映画や芝居で何度も描かれている。既成のものをなぞるのではなく、今までに誰も考えなかった展開や設定を盛り込もう。
 安直な表現は避けよう。たとえば「メガネをかけると、それ以後幽霊が見えるようになる」とか、(これは演出だが)引割幕が少し開いて「極楽への道」が出てきた、とかは一工夫必要だろう。また「偶然」が多いとご都合主義に見える。たとえば、たまたま出会った幽霊が、実は小5のときにたまたま箸をくれた人だった、恩人だったというのは、いくらなんでもやりすぎだろう。


 演技について。少なくとも「遊ぼう」という意識があるのは、とてもいい。十分に遊びきれないとしたら、身体が固いからだ。立ち方が前のめりの人がいた。もっとリラックスしよう。力んでセリフを言う必要はない。ぼそぼそ喋っても聞こえる。声を張るのを一度やめてみて、どんな効果が得られるのか確認してみるのもいい。これくらいの劇場なら十分声は通る。そもそも大きく言うから観客に意味内容が伝わるとは限らない。ぼそぼそ言っても聞こえるセリフは聞こえるものだ。それは伝えようという意思の要素の方が大きい。


 あと、単サスの中で演じると表情が見えない 前からフォローの明かりを入れるか 少なくともサスのサークルの後ろの方に立つべきだ。ラスト、コミカルに走り回っている絵で終わったのは、芝居の内容とよく合っていたと思う。




4 高知工業高「アルバム」作/KAORU


 これは、お世辞抜きで面白かった。心の底から笑わせてもらった。サプライズといったら失礼だろうか。昨年度の高知工業の作品は、正直混乱した出来だった。講評するのに本当に困ってしまった。誠実に意見を述べるべきだと思ったオイラは「ごめんなさい。わからない」と彼らに言ったほどだった。


 昨年の講評文にはこう書いた。「役者は身体やセリフを意識化していない。それゆえに、セリフがかみ合わない面白さや、独特の存在感がある。そうした身体の特徴はうまく生かした方がいい。大人たちを描くのではなく、自分たちの高校生ライフを描いた方がよかったのではないか。それは君たちにしか描けないものとして、とても魅力的なものになる予感がする」


 高知工業の皆さんが講評文をどこまで参考にしたかは分からない。だが今年度の高知工業は、昨年の講評文で指摘したとおりの「身体の独特の存在感をうまく生かした」「自分たちの高校生ライフ」を描いた作品を作ってきた。完成した今回の作品は、直球ど真ん中を打ち返したホームランだったとオイラは思う。


 高知工業「アルバム」は、放課後、友達同士で集まって、お菓子を食べながら喋ったり勉強したりする、だらしない高校生をスケッチした作品である。登場人物がが個性的に描き分けられており、バットを振り回す素行不良の生徒がいたり、人のいい女生徒がいたり、ちょっと勉強のできるヤツがいたり。ちょっとした恋愛のすれ違いがあったり、先生の乱入があったりはするが、大きな出来事は起こらない。だがその時間が、いかに楽しく大切な瞬間瞬間の積み重ねであり、「いま=ここ」だけのものであることに高校生たちは気づき、感無量になるという内容である。


 何より特筆すべきは役者の状態である。リラックスした状態で舞台に立っている。うまく読んでやろうという力みや気負いも感じられない。無欲であり、ただ目の前の相手のセリフにのみ集中して反応する「セリフのラリー」が成立していた。
 アドリブを重視した芝居つくりは、相手のセリフのニュアンスが変われば、受ける側のニュアンスも変わるのではと思わせた。身体感覚を演技にうまく乗せていた。ノリがよく、役者はその場を楽しんでいた。それは、放課後のお喋りをかけがえのない楽しい時間と思い、生き生きと楽しんでいる劇中の人々のありようと重なるものだった。


 台本は、だらだらとくだらない会話を続ける人たちを描いて、話を前へ進めるでもない状況を生み出していた。こういう書き方が演劇を立ち上げる。実は昨年度オイラが顧問を務める演劇部で、この芝居と同じような試みにチャレンジしたのだが、高知工業の役者の方が、はるかにうまく演じていた。