高知小津高演劇部 ナイトメア・プロジェクト作「歪みの国のアリス」


 5/3〜5の3日間、高知県の春の高等学校演劇祭に、昨年度、一昨年度に引き続き、講師審査員として招かれた。以下、毎年恒例となっているが、何回かに分けて、各校の感想を記したい。


 高知小津高演劇部の芝居は、携帯ゲーム「歪みの国のアリス」を下敷きに劇化した、少し特殊な成り立ちの芝居である。ストーリーや基本的な設定だけでなく、死神風のチェシャ猫や主人公のメイド衣装、音楽などもゲームに準じている。既成のイメージを借りながら、さらにその世界を深化させる、そういう方向性をオイラは否定しない(もちろん著作権者からの許諾を受けたうえでのことであるが)。ただ既成のイメージをなぞっただけの、劣化コピーのような作品で終わるのであればつまらない。少なくとも作り手には、既成のイメージを超えようという確固とした意思と実際の試行錯誤が必要だ。


 演劇が成立するためには、瞬間瞬間のリアルの積み重ねが必要である。たとえば、本作中の「死」は「とても軽い」。もちろん眼前で行われていることはウソであるという前提で観客は見ているから、大鎌が書き割りのようであっても、重さがなく斬れる感じがなくても、大きな問題ではない。だが演技者が、それを本当の大鎌だと思っていない、重さを感じていない、本当に首を刈る気がない、それはおおいに問題だ。感情や気持ちにこそウソがあるのが問題だ。刈られる方も本気で逃げない。生首が出てきても驚かない。リアクションがない。


 演劇を立ち上げる気持ちがあるのなら、瞬間瞬間の感情や気持ちをくっきりと感じるべきだ。役者はストーリーの進行に奉仕する存在ではない。もてあそぶように、死を軽く扱ってはならない。中途半端に心を動かし、驚いたフリ、逃げるフリをしてはならない。舞台の上で、本当に死に直面したときのリアルな感情を保持しないといけない。


 ただでさえこの台本のセリフは説明的なのである。最初のセリフからしてそうだ。「…あれ? 招待状…どこかで落としちゃったかな? …どうしよう! あれがないとお茶会参加できないよ!!」このセリフは状況を説明するために書かれている。だから漫然と読めば必ずセリフは説明的になる。だって説明のためのセリフなのだから! だから役者は、セリフの背後にある感情や気持ちこそ掘り起こして読まなければならない。本当にお茶会に行きたいのなら、もっとちゃんと招待状を探すべきだし、それにともなって不安や抑圧が生じたなら、それをきちんと意識するべきだ。そうした営みこそが「既成のイメージをなぞる」ことの正反対の行為なのだとオイラは思う。


 また、本作は、主人公の亜莉子が、現実の母子関係で苦しんだことが、歪んだ世界を作り出したという設定である。だが亜莉子の現実世界が十分に描かれないので、なぜ亜莉子が苦しんでいるのかが、書割り風にしか分からない。父がなぜ死んだのか、母が虐待に至るまでに何があったのか、現実世界をもう少し描くか、少なくとも演技者は現実世界の明確なイメージを持つべきだ。そうでないと、歪んだ世界に立ちすくむ亜莉子の悲しみは立ちあがらないのではないか。