第27回高知県高等学校演劇祭 その2


2 高知追手前高/宮沢賢治作「銀河鉄道の夜


 この演劇祭で思ったことは、舞台には同じように上がっているのだけれど、表現に対するさまざまな高校生の取り組み方があって、それは本当にいろいろなバリエーションがある、ということだった。とくに「表現に対する自覚」という意味では、自分のありようを客観的に見つめ、稽古という試行錯誤を経て表現を練り上げている人たちから、表現することにまったく無自覚なまま舞台にあがっている人たちまで、そのありようの幅広さを今さらながら見せつけられて、ああ高校演劇は多様だなあとオイラは改めて思ったのだった。


 高知追手前高の芝居は、自分なりの表現を練り上げていこうという意思が、表現にあふれていた。とくに抽象的な表現を行うことで、観客の想像力をかきたてようという意図がはっきりと感じられた。たとえば、白い多角柱を立てたり寝かしたりして場面の転換を行なったり、銀河鉄道の車内を鉄道の車内風にせず、バラバラに白い多角柱に座って車内に見せたりしているのは、演劇的でセンス良いと思う。


 また、音楽を情緒をかきたてるものとして使うのではなく、舞台上でパラパラっとピアノを弾き、ナマ音を聞かせることで「孔雀がいる」「汽車が到着した音」などとするのも同様で、観客の想像力をかきたてる。とくに演技者と同じ空間にいる人が、生演奏して音を発するというのが、いい。単なる効果音ではなく、ピアノが他の役者と一体となって演技をしている。これも、とても演劇的だと思う。


 ジョバンニとカンパネルラも無理して男装したり、子供のような作り込みをしていない。一貫して観客は想像力で補いながら舞台を見ることができる。セリフ回しも落ち着いていて、セリフもよくわかる。ただしジョバンニは、泣いたり固まったりする場面になると、力が少々入ってセリフが重くなるのが惜しい。


 内容的なことは山内先生が書かれると思うが、疑問点をひとつだけ。途中で母が登場したのに、ラストでは母は登場しない。また、途中でミルクを牛乳屋に取りにいく場面があるのに、ラストではミルク屋は登場しない。構成面で対応関係にあるべきデティールがなぜか描かれない。上演時間の関係や役者の関係もあるのかもしれないが、少々「すわりが悪い」のが気になった。



上演3 高知高/双葉作「トモナリ」


 今回はなぜか転換に手間取った学校が多かった。高知高もそのひとつ。暗転の数も多い。これだけ長いと、さすがに観客の集中力が切れる。暗転時に引割の奥に用意されていた机をひとつひとつ出して所定の位置に丁寧に置いていた。何か策はなかったか。暗転時に音楽をかぶせるだけでもだいぶ印象は違う。人数が足りないのであれば助っ人を呼ぶ手もある。また机を抽象的なハコなどに変えれば、動かすのも最小限で済むかもしれない。また、台本には教室という指定があるが、教室でなければならない必然性はないので、教室以外の場所にするという手もある。
 暗転の中での動きは、白っぽいものを着ていれば普通に見えてしまう。ひとりごとのように小さく喋る言葉も、もちろん観客席に聞こえます。何があっても、役に集中して素に戻らないこと。


 男二人は、力が抜けていて面白いと思う。真面目そうな、ある種の男子の持っている雰囲気を醸し出している。女子二人も体はよくこなれているが、相手の両肩に手をやったり手を組むなど、少々類型的な所作が多いのが気になった。


 記憶喪失をめぐるドラマだが、滅多に起こらない記憶喪失という状況が、片方の主人公の母親と、もう片方の主人公と、偶然2回起こる。しかも母が記憶喪失になってわあわあ言っているときに、偶然通りかかって話しかけたのが二人の初めての出会いというのは、偶然にすぎる。また、記憶を失った後の女子の振舞い方も気になった。自分が記憶を失っていることを知っているわけだから、友達かも知れない人に不用意に「どちらさまですか」とは言わないだろう。もっと手探りで相手が誰だか探りながら話しかけるだろう。記憶を失うことは手術前から想定されたのだから、自分の友人関係など、忘れたら困ることは書き残して、あとで自分に見せてくれるように、家族に託しておくこともできたはずだ。


 登場人物はラストまで思い出にとらわれている。「大事なことを忘れたまま生きていくなんて、悲しすぎる」というが、オイラはむしろ忘れてもいいんじゃないかと思う。人は忘れるものだ。二度と忘れないようにあがくより、もし忘れたとしても、「いま−ここ」の瞬間を大切に、一から関係を構築していく方が前向きではないか。もっとお互いを信じたらいいじゃない。そうしたラストの方が、かけがえのない瞬間をいかに表現するかを問う、演劇という表現形式にふさわしい気がする。