ささやかな校内公演のパンフレットに書いた口上


 「繰り返し記憶する」ということ


 四国から行くなら、明石海峡大橋を渡って一般道に降りてすぐ。明石市の中心に明石公園という大きな公園がある。そこに阪神淡路大震災の慰霊碑があって、こう刻まれている。


 これは いつかあったこと
 これは いつかあること
 だから よく記憶すること
 だから 繰り返し記憶すること
 このさき
 わたしたちが生きのびるために


 作者は詩人の安水稔和氏。タイトルは「これは」。
 「これは」「いつか」「だから」「記憶」「すること」といった反復が効果的に使われていて、心に残る。そう、我々は「繰り返し思い出」さねばならぬ。そして生きのびなければならぬ。それが、震災で亡くなった人たちの願いでもある。そのことを実にくっきりと思い出させてくれる詩である。


 今回、演劇部の人たちが、阪神淡路大震災についての作品を、校内で同じ高校生向けにやりたいと言ったとき、僕は正直驚いた。高校生にとって、阪神淡路大震災は、生まれる前のこと。当時のことを知らない高校生が、震災に直面した神戸の人々の気持ちに、寄り添うことができるのか。実感をこめて長セリフを言うことができるのか。演じる側も見る側も、理解して震災に向かい合うことができるのか、そう思ったからだ。「これをやりたいのなら、阪神淡路大震災の話ではなくて、現代の話、たとえば東日本大震災の話に置き換えてはどうか?」などとアドバイスをしたものだった(結局それは「方言の壁」があって、結局実現しなかったのだが)。


 だが上演直前の今になって考えれば、阪神淡路大震災の話として本作が上演されることは、よきことではないのか、と迷いながらもオイラは思う。もし高校生の観客に受け入れられやすいように、作品を改変してしまったら、それはいわゆる「作りもの」である。阪神淡路大震災後に直面した人びとの思いや気持ちを理解し表現することに、まっすぐに向かっていくことこそ、死者を思い「繰り返し記憶する」ということではないのか。


 たとえ舞台で演じられる表現が拙いものであったとしても、想像力によって彼方と此方の距離を埋めようとする背伸び自身に意味がある。もしさらに、観客に背伸びを促すことができたら、もっといい。
 4月17日の17:20、104教室で開演です。よろしくお願いいたします。 
    
                                    演劇部顧問 古田 彰信