シュガー・ラッシュ



 アメリカ映画のヒーロー志向を少々ひねったディズニー製作のアニメ映画。アーケードゲーム「フィックス・イット・フェリックス」の中で悪役のラルフは、いつも悪役をやらされていることに不満を持ち、「ヒーローのメダル」を求めて、他のゲームに入り込む。「シュガー・ラッシュ」というお菓子の世界のレースゲームの中で、不遇な少女ヴァネロペを助け、彼は自分の役割を理解し、最後は自分のゲームへ帰っていく。監督リッチ・ムーア。


 「ヒーローになりたい悪役」の源流を探ってみる。オイラがすぐに思い出したのは、浜田広介「泣いた赤鬼」(1965)、梶原一騎タイガーマスク」(1968)。両作品とも書かれたのは1960年代と、比較的新しい(もし他に古い作品があればご教示願いたい)。


 「悪役の苦悩」が顕在化されるには、価値観の相対化が必要。つまりポストモダンである現代にこそ、こうした設定はふさわしい。逸脱した正義(「ダーティハリー」)、臆病な主人公(「ヱヴァンゲリヲン」)、苦悩する善(「ダークナイト」)等、現代は善悪の枠組みを逸脱する主人公のオンパレードである。


 とは言え、ヒーロー志向の強いアメリカ娯楽映画の傾向を、あからさまにパロディとして設定に利用するのは、まあ誰にでも思いつく範疇と思うが、もうひとつ、ディズニー製作のファミリー向け作品らしく、「家族主義」イデオロギーが通底していることを指摘しておきたい。


 ご覧になった方には「どこが家族主義?」と思われた方もいるかも知れない。主人公のラルフは単身者である。あからさまな家族賛美は作品のどこにもない。だが、ラスト近く、少女ヴァネロペがラルフの胸元(大きな腕の中)に飛びこみ、もぐりこんでくる場面で、ああ、この動きは子どもの振る舞い方だ、と、子育て中のオイラは直感的に悟ったのだった。二人の関係は友情や恋愛関係ではない。これは「疑似親子関係」だ。そう考えると、ラストで「別のゲームから」ヴァネロペを見守るラルフの幸せそうな視線も納得がいく。


 移民国家であるアメリカ合衆国は、血縁共同体が形成されにくかったこともあって、家族の結束が比較的強い。価値観が相対化される現代だからこそ、ディズニーやピクサーなど、アメリカの娯楽映画は、家族至上主義を執拗に称揚する。子育て中の親にとっては、映画館に行って家族の価値が確認でき、安定が保障されることが、また家族で映画を見にいこうという原動力になる。だからアメリカ(ピクサー)の家族映画には、家父長的な視点が重視された、父親視点の映画が多い。「ニモ」しかり「Mr.インクレディブル」しかり「モンスターズ・インク」しかり。父親不在もしくは希薄な物語の多い日本の子供向け物語とは好対照である。