「ロボッツ」




 「シャーク・テイル」よりよっぽど面白い。これも8/1に吹き替えで観た。僕の住む地方都市では何でも吹き替えだ。

 ロボットのスラップスティック的な連続する身体(?)表現が、作品にリズムを与えている。「スター・ウォーズ」「雨に唄えば」「2001年宇宙の旅」「オズの魔法使い」など、映画の引用の仕方も洒落ていて、大人の鑑賞に耐える。

 だが、映画評論家と称する輩の中には、この映画を「古今東西たくさん作られてきた人民による革命映画、左翼的な政治映画の一種である。彼らの理想というか、永遠の悲願を子供アニメの体裁で作り上げた作品といえる」などと評する者がいて本当に唖然としてしまう。http://movie.maeda-y.com/movie/00570.htmこの人は「パッチギ」を「基本的に自虐的歴史観というか、反日風味がたっぷりの映画」http://movie.maeda-y.com/movie/00455.htmと言い切る人であり、わざと言っているのでなければここだけの話本当の馬鹿だ。


 「ロボッツ」にしろ「ハービー」にしろ、アメリカ映画は単純な構造を持つ。家族の絆を確かめるストーリー、夢を捨てるな、チャンスを生かして成功をつかめというメッセージ、スペクタクルな盛り上げ、そしてハッピーエンド。アメリカン・ドリームを称揚し勝者のメッセージを送り出しつづけている


 そもそも大衆に受け入れられる娯楽というのは貧しい構造の上に成り立つ。「水戸黄門」にしろ「寅さん」にしろエロヴィデオにせよ、「定められた構造の物語の繰り返し」こそが人々には受け入れられる。「ハービー」も「ロボッツ」も、忠実にそれをなぞっている。

 そうした映画の「構造」に着目したのが、内田樹の「映画の構造分析」であった。まとまった時間があれば、内田樹先生の著作を先例としながら、僕なりに詳細にアメリカ映画を分析してみたい。


 ただ、「ロボッツ」において、一カ所だけひっかかるところがある。ラスト、母親だけが燃える溶鉱炉に投げ込まれて殺されるというのは、童話の「悪い魔女の死」だろう。だが、この映画の悪役である息子のロボットは死なない。一緒に死ぬのが定石だろう。これを同分析すればいいのか、それが疑問だ。もう少し考えてみたい。