ブログ「内田樹の研究室」2013年3月17日エントリー「言語を学ぶことについて」


 文科省の旗振りにもかかわらず、英語の教育成果が上らないのは、大人も子どもも「最小の学習努力で、高い評価を得る方法」を考えるからだという内田樹先生のブログのエントリーhttp://blog.tatsuru.com/2013/03/19_0907.phpにオイラも強く共感する。ことは語学だけではない。オイラは高校で地理を担当しているが、この科目も劣化が著しい。受験に必要だと言う高校生の多くは、いまや、窓から見える目の前の山脈の名前すら答えられないのだ。


 内田先生は言う。「進学にも、就職にも、英語力は絶対に必要であると官民あげてうるさくアナウンスされているにもかかわらずその教育成果は上がらない」その理由は「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益が開示されているために、最短時間、最小の学習努力で、高い評価を得ようとするふるまい方が一般的になっているところにあるという。こうして身につけた英語力は、「英語の小説を読んだり、英語の映画を見たり、英語の音楽を歌ったりしながら、じわじわと身につけた英語力と比べたときに、その厚みや深みにおいて比較にならない」


 オイラの地理に対する考えも、内田樹氏と似たようなところに落ち着く。「テストに出るから」「大学入試に出るから」という追い込まれ方をした高校生は、できるだけ最小の努力で、効率よく点を取ろうとする。「赤点でなかったらいい」「先生、ワークをやっていれば、テストは大丈夫ですか?」などと公然と言う。これらは、地理の教師であるオイラからみると、地理を「なめている」のか、教師としてのオイラを「なめている」のか、どちらかとしか思えない口ぶりに聞こえる。


 だが当の本人たちには、おそらく「なめている」という意識はないのだろう。効率よく学習することは、当たり前のこと。回りの大人たちもそれを肯定する。「テスト勉強に集中しろ」「不要なことはやらない方がいい」「地理は追いこみがきく(だから今は勉強するな)」「理系は地理が有利」・・・・」彼らは、そうしたアナウンスのシャワーを受けて育ってきた。だから、目の前の教科が自分の人生を豊かにしたり、考え方を深めたり、ひいては人間としての器を広げるものだということには、思いも及ばない。教科学習を、テストのための勉強に矮小化しているのは、周りの大人も同罪である。

 
関連エントリ「あなたが地理で点の取れない理由」
  http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120928