内田樹「呪いの時代」新潮社


呪いの時代

呪いの時代


 ウチダ先生の新刊は、現代における「呪い」と「贈与」について考察する。「「今のメディアを見ていると」・・「悪口ばかり」なのである。政治家たちも知識人たちも、いかに鮮やかに、一撃で、相手に回復不可能の傷を与えることができるか、その技巧を競い合っている。たしかに、そのような脊髄反射的に「寸鉄人を刺す」言葉が出る人は「頭がよさそうに見える」。けれども・・・・・世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは何をする気なのかということである」(284ページ)


 オイラも芝居を作ったり、モノを書いたり、教育実践を行う者の端くれなので、「創造にはエネルギーがいる」という指摘はよくわかる。創り出すより破壊する方が簡単。破壊する側に回れば、全能感や自尊感情は満たされる。
 ネットには、節度のない激烈で攻撃的な言葉が吐き散らかされている。テレビ番組に出演する政治家や文化人は、平気で他人の発言をさえぎり、切り捨て、揚げ足をとる。それが内田の言う「呪い」である。こうした言葉を使うことで、我々は、簡単に全能感や自尊感情を満足させることができる。しかし、それらの言葉は自分自身に戻ってくる、と内田は言う。


 (以下引用)「悪いやつ」がどこかにいて、すべてをマニピュレイトしているというチープな物語を受け入れてしまうと、僕たちは「この社会を住み易くするために、ささやかだが具体的な努力をする」という意欲を致命的に殺がれてしまう。「努力しても報われない」という言葉をいったん口にすると、その言葉は自分自身に対する呪いとして活動しはじめる。
 僕たちの社会における資源やプロモーション機会の分配がフェアでないことはほんとうです。でも、それではどうやって社会的フェアネスを作り上げてゆくのかという「創造」的な議論にとりかかるべきで、「だから、努力しても報われないのだ」という「説明」を自分に許してはならない。
 あらゆる階層社会では、「この社会システムはアンフェアだから努力しても報われない」と思っている人々が社会下層を形成し、「努力すればそれなりの成果がある」と信じている人々が社会上層を形成する。必ず、そうなります。(33ページ)


 内田樹がすごいのは、何げない社会や生活の中の違和感に着目し、そこを起点にして知的資源を動員し、論理的かつ分かりやすい言葉で本質を読み解く、その手つきがとても鮮やかな点だ。たとえば我々は格差社会に生きている、そのことは知っている。それは「格差社会」というラベルがすでにあるからだ。しかしラベルのないことについては気づけない。呪いの言葉が唱える者を縛り努力を放棄させる、それが格差社会を増幅させる、そこまでは気づけない。オイラもこんなラベルがあるよということを、内田樹のように示すことができたらいいなと思う。

 「9.11同時多発テロ」後にイラク侵攻が行なわれました。あのときアメリカ人のほとんどは、イラクがどこにあるかさえよく知らなかった、にもかかわらず戦争を指示した。それは「テロリスト」という記号がイラク人に張りつけられたからです。そのとき、「イラク人」はひとりひとり具体的な生活を営み、ひとりひとり違う政治的意見や宗教的進上を持ち、固有の欲望や夢や野心を抱いている人々であることを止めて、「テロリスト」という単一の記号のうちに回収されてしまった。記号的に表象された敵に対して、記号的に表象された暴力が加えられる。記号的な暴力にはほとんど制約が課されません。(48ページ)


 レッテルによって人を判断するのではなく


 呪いというのは「記号化の過剰」なので、呪いを抑制するためには、記号化の逆をたどらなければならないと内田は言う。本書には、千葉重太郎勝海舟を斬ろうと誘われたときの坂本龍馬のことが例として書かれている。「言われる通りの悪者であるかどうか、一応会ってみよう」と。「風評がその人に貼りつけたレッテルによってではなく、自分の目でその正味の人間を考量しようとした」のである。また、自分自身に対しては「生身の、具体的な生活の中にある。あまりぱっとしない正味の自分こそ、真の主体として維持し続けることである」と。


 世界を単純な記号に還元するのではなく、そのものに向かい合い、複雑なそのありようを写生し、記述する。それが生をくみ取るための作法である。だがいくら言葉を尽くしても尽くしても、この世界は書き尽くせない。ちょうどそれは、オイラが本書の魅力を何万言費やしても語り尽くすことができないように。オイラはウチダ先生の言葉を、ただかみしめながら、黙って立ちつくすしかできないのである。
 だからこの世界は魅力的なのだ。オイラはつくづくそう思う。





 (追記)そうそう、それだよ、そうした力が必要なんだよな、と思った箇所がここ。

 コナン・ドイルエジンバラ大学医学部時代の教師にジョセフ・ベルという外科医がいました。この人は患者が入ってくると、姿を一瞥しただけで診察する前にその人の職業や出身地を当てたそうです。ある軍人の場合は平服を着ていたのにもかかわらず、学生たちの前で、その人の所属連隊や海外での配属地まで言い当てたそうです。ドイルはこうのベルをモデルにしてシャーロック・ホームズを造形したと言われています。ホームズはワトソンに「どうしてわかるのだ?」と訊かれると、きちんと理由を示しますが、ジョセフ・ベル先生はどうだったのか。ご本人に訊いてみたら「どうしてわかるのかわからない」という答えが返ってくる場合もあったのではないかと僕は思います。世の中には、まだ加工されて「情報」になっていない段階の、輪郭の定かならぬ、微細なシグナルを拾いあげられる人がいるからです。


 ・・・・コミュニケーション感度のよい人というのは、シグナルになる以前のノイズ、前記号的なものを感知して、それを情報に練り上げてゆく能力が非常に高い。「人を見る眼」というのがまさしくこのことです。対面する人間の不安や欲望を見通し、その才能や器量を考量し、適切に対処することはこのような観察力なしには成り立ちません。


 かつてはこの「人を見る眼」を涵養することはかなり優先順位の高い教育的課題でした。けれども、現代ではもうこのような能力を組織的に開発する教育プログラムも存在しませんし、そのようなプログラムが必要だと考える人もいません。僕たちの社会では、第一次的データは「記号」です。数値です。数値的に示されないものは存在しない。数値以前のデータは無視してよい。現に、あらゆる場面で僕たちの推論や仮説は「データを出せ」「数値的根拠を示せ」と言って突き返されます。(51ページ)