内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩「九条どうでしょう」ちくま文庫


9条どうでしょう (ちくま文庫)

9条どうでしょう (ちくま文庫)


 内田樹先生言うところの「たいへん濃い」メンバー4名(内田樹小田嶋隆平川克美町山智浩)が、憲法第9条について、それぞれの意見を述べている。


 初版は2006年。ちょうど安倍晋三内閣のときで、教育再生会議で「愛国主義教育」が導入され、改憲が政治日程に上ってきた頃。あれから7年、安倍政権が再び成立し、参議院選での自民党の圧勝も見えてきて、憲法改正の議論がにぎわしくなってきつつある昨今、今こそ本書が読まれるべき時だとオイラは思う。


 平川克美氏いわく「議論の次元をひとつ繰り上げての議論」(注)。通りいっぺんの意見では物足りない人にオススメ。四氏ともそれぞれ感心させられたが、オイラがとくに心に残ったのは、平川克美氏の「「理想」と「現実」を、どう折り合いをつけていくか」の考え方。以下、引用である。


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 「歴史の教訓が教えているのは、「現実」はいつも陰謀と闘争の歴史であったということではない。戦争そのものを否定するという迂遠な「理想」を軽蔑するものは、軽蔑されるような「現実」しか作り出すことはできないということである。


 「「現実」を創造してゆくという立ち位置を失えば、「現実」に回収される他はない。海外に戦力を展開しないで紛争解決の道を探るというのは、確かにひとつの「理想」である。しかし、「理想」をきれいごとだと笑うものは、「理想」を失ったうら寂しい「現実」の中でしか生きることができない。「現実」を作り出すのは「彼ら」だからある。もし「現実」の中にリスクがあるとするならば、リスクとは「彼ら」自身のことであるかもしれないという可能性を見落とすということである。これをわたしは「間の抜けた」現実認識だと言いたいのである。


 「「現実的」であるということの真の意味は、「現実」に迎合して考えるということではない。「理想」とは、ありえない空想ではなく、ありえたかもしれない「現実」である。どんな時代においても「理想」と「現実」というものは、同時に存在しているのであり、「現実的」であるとは、この引き裂かれた状態をどのようにして折り合いをつけ、やり繰りしてゆくのかという態度のことだとわたしは思う。「彼ら」はその意味では、折り合いを放棄して、「理想」を嘲笑することで「現実」に整合性を与えようとしているように見える。それを「普通」のことだと言う。わたしは、二律背反的である「理想」と「現実」に折り合いをつけるという、その言葉の本来の意味での「政治」に代えて、戦力の行使に問題解決の希望を見出そうとする態度をこそ「理想主義」ではないかと思う。


 「そして、これが「彼ら」には憲法を変えていただきたくない理由なのである。(227ページ)


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 「現実」を書きかえるために何をするべきかと考えることなしに、「理想」を嘲笑して「現実」を肯定し、「現実」に整合性を与えようとする、憲法論議に限らず、そうした考え方や行動様式は、どこにでも普通に見られる。この意見が新鮮に感じられたということは、オイラもまた、知らない間に、そうした振る舞い方に毒されているのかも知れない、とオイラは改めて思う。


 (注)ブログ「内田樹の研究室」2006年3月22日「『九条どうでしょう』プレミアム試写会」http://blog.tatsuru.com/archives/001622.phpより引用