「桐島、部活やめるってよ」その3



 (つづき)ラストはこうである。(ここからネタばれ)。イケメンの宏樹(東出昌大)が、屋上でオタクの前田(神木隆之介)と少しだけ話をする。宏樹がカメラを構えて「将来は映画監督ですか」と茶化して言うと、前田は逡巡したあと「映画監督は無理」と言う。それでも映画を撮る理由を次のように言う「ときどきね、おれたちが撮っている映画と好きな映画がつながっていると思える瞬間があって」。その後、前田はカメラを宏樹に向け「やっぱり格好いいね」と言うと、「俺はいいって」と言いながら、フレームの中の宏樹は泣く。


 宏樹はなぜ泣いたのだろう。ヒントは宏樹以外の登場人物にあるように思う。本作には、自分に才能がない、愛されないことを自覚している人が多く登場する。ホラー映画を撮る前田、来るはずのないドラフトを待ち続けている野球部3年の「キャプテン」、桐島がバレー部を辞めたあとリベロを任された小柄で力不足な「風助」、姉ほどの才能はないことを自覚しているバドミントン部の「実果」。そして宏樹に片思いの吹奏楽部の「沢島」。彼らは皆、現実の重さを実感しながらも、それぞれのやり方で必死になってあがいている。


 対する宏樹である。宏樹は恵まれている。運動もできる。モテる。綺麗な彼女もいる。自分はできると思っている。「出来るヤツは何でもできるし出来ないヤツは何にもできないって話だろ」などとうそぶいてみせたりする、スクールカーストの最上層にいる。ところが、実際の彼は、何もしていない。野球部を休部して、放課後に仲間と学校の片隅でバスケをやって時間をつぶしているが、それが楽しいというわけでもない。何もしないから、とりあえず全能感は守られる。自分のダメさに直面しなくてすむ。


 ところが、桐島がバレー部をやめ、登校しなくなった。それによって、スクールカーストの最上層は動揺する。イケているグループの中で、もっともイケてる桐島。辞める必要のない桐島。そんな彼なのに踏み出した(のかも知れない)。対する宏樹は踏み出していない。ここに「いる」だけでは、何の価値もないのではないか。踏み出さないのは自分自身が何もできないということを認めるのが怖いからではないのか。


 スクールカースト最上位に属する友人と一緒にいれば、そういうことは自覚しなくてすむ。桐島がバレー部を辞めた騒動をきっかけに、日常にちょっとした亀裂が入り、めぐりめぐって普段話さない違うスクールカーストの前田と話したとき、すでに空虚さを感じていた宏樹は、自分の弱さに気づき動揺したのだと思う。「やっぱり格好いいね」とカメラを覗く前田に言われることで、何もしていない自分がまったく格好よくないことを宏樹は自覚した。むしろ、才能がなくても、夢と希望というフィクションを胸に抱き、現実との距離を縮めようとあがきながら努力している前田たちの方が、より人間的なのではないか、宏樹はそう感じたように見えた。だから発作的に嗚咽したのだ、これがオイラの解釈である。


 作り手がもっとも共感を寄せているのは映画オタクの前田である。めまぐるしく移り変わる我々の世界で、なぜ映画にこだわるのか、作り手がそういう思いを前田に投影させながらつくったことは間違いない。だがそれ以外の揺れる「善き」登場人物たちに共感を寄せる作り手の手つきもまた、限りなく優しい。


 誰もが現実をどう受け入れ、乗り越えていこうとしているのか、悩み葛藤している。そのことに目を向けよ。「桐島、部活やめるってよ」が言いたかったことは、まさにそのことだと、オイラは思う。


 追記その1
 映画を見ながら、周辺の緑がやけに濃いなと思っていたら、高知ロケだとあとで気づいた。高知の緑は、他の四国3県と比べても、ヤケに濃い。高知中央高でロケされたとのこと。きれいな学校だなと思うし、こういう形で映画になると、在校生や卒業生も、母校を誇りに思えるだろう。元々は正直もっと都会の学校という設定だとは思うが、ロングでとらえられる長い廊下や坂道など、本当にいい味を出していると思う。


 追記その2
 この映画の不親切ぶりを見ながら、ああ、確かよく似た感じの不親切な傑作があったと、ある洋画のことを思い出した。そのタイトルは確か「裏切りのサーカス」と言った。


 関連エントリ
 ■「桐島、部活辞めるってよ」その1http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130324
 ■「桐島、部活やめるってよ」その2http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130323


桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)

桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)