「桐島、部活やめるってよ」その2



 (承前)内容的には、スクールカーストのディテールを精緻に描いているのが面白い。「同じクラスでも、階層の違うグループ員の接触はほとんどなく、会話しない」ということがきちんと描かれている。教室は対話の場所ではなく、ディスコミュニケーションの場所なのである。その代わりに、かわされる微妙なお互いの視線や、ちょっとした表情の変化を拾いあげていて、普段はほとんど交わらない人たちの間に、さりげない関係が生まれていく様子が実にリアルである。


 その他ディテールの確かさは群を抜いている。野球部のキャプテンは、いかにも野球部であり、バレー部の面々もバレー部に見える。「一部の女子は、悪口を言うことで絆を強める」といった箇所がきちんと描かれていたり、ハデ目の女子が同じように巻髪にしている様子も、学校関係者であるオイラから見ても違和感がない。「起立、礼」をするときに、揃いすぎている点を除けば完璧だろう。現実の教室では、内面の自由を統制しないので、たとえ優秀な高校生でも、こんなに揃った礼はしない。


 神木隆之介扮する映画秘宝少年については、フィルムにこだわって8ミリで映画を撮っているという設定だが、ここはちょっとできすぎかなとは思う。フィルム代、現像代などのコストや、現像にかかる期日、画質などを考慮すれば、2010年代の今、高校生が8ミリで映画を撮るという選択肢は、あまりに非現実的である(設定を1980年代までにするのなら、成立するかもしれない)。「鉄男を見に行ったときにたまたまカスミ(橋本愛)と出会うという展開も含めて、「シネフィルのファンタジー」とオイラは受け止めた。


 もう少し書こう。神木隆之介扮する「前田」は、スクールカーストの底辺に位置して、恋愛や体育系部活動にはリアリティを感じることができず、ゾンビ映画の方に親近感を覚えている。現実から抑圧され、それでも「僕たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」と語る。この設定は、ホラー小説を書き、ホラー映画を好んで見て、高じて8ミリ映画作りを始めた、オイラの青春の姿とも大きく重なる。8ミリ映画にこだわる主人公という設定にこめられた、吉田大八(1963年生)の込めた「物語」と思い入れには、とても共感できる。だが、それは1970年代末の話で、そんな高校生は、今高校には、いないのである。「鉄男」上演中の映画館に、橋本愛がいないのと同じように。


 もっとも、作り手は承知のうえで作っているのだろう。オイラは「現実との距離」の違和感があることが欠点だとは全然思わない。ファンタジーも生きるうえでは必要だからだ。むしろ「現実との距離」を、どう折り合いをつけながら生きていくか、自己満足と絶望の間で揺れながら生きている、不安定な存在であるということを作り手はこの映画のテーマに据えたかったのではないかとオイラは思う。それは、ラスト、宏樹が泣いた理由を考えるとはっきりする(つづく)。


関連エントリ
 ■「桐島、部活辞めるってよ」その1http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130324
 ■「桐島、部活辞めるってよ」その3http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130322
 ■[本/文学]鈴木翔「教室内カースト光文社新書http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20121225


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