不良文化についての一考察/その1


 何度も言っているとおり、不良文化についての映画や文献を漁っているのは、オイラの勤務校の演劇部が県大会で上演する作品作りの参考にするため。当の作品「またあしたっ」(タカギ カツヤ作)は、11月23日(金)14時から、県郷土文化会館での上演となる予定。一昨年に卒業した先輩が演劇部のために残した台本の、昨年に続き二年連続の同一作品の上演である。キャストと中身を一新し、より洗練された形での完成形を目指している。



 この芝居に「(いまどき珍しい)長いスカートをはいた女子高校生3人組」というのが出てくる。台本中に指示があるわけではない。今の高校生を批評的に描くためには、レトロな長いスカートなんぞ面白いだろうといった、単なる思いつきがはじまりで、昨年度の上演の際に履かせてみたのだった。それは表層的な趣向からはじまった試行錯誤だったが、特異な人たちが舞台の上にいるわけだから、その人たちが「いま−ここ」にいる意味を、オイラは作り手として考えるハメになった。「この、長いスカートをはいた女子高校生というのは何者なのだろう」という疑問にオイラはとらわれてしまったのである。


 「またあしたっ」と言う作品についても少し触れておこう。この芝居は、勉強の嫌いな女子3人組が、調査書の評定が確定する3年1学期末になって、放課後に残ってあわてて勉強しようとするが、なかなかできない、という内容である。主人公3人組の設定に注目しよう。3人とも勉強ができない。クラスでも少し浮いているようだ。粗暴な部分もある。彼女たちは不良なのだろうか。ひょっとしたら「ヤンキー」なのかも知れない。だとしたら、どんな高校生活を送っているのだろう。芝居を作りながら、そんなふうにイメージを広げてきた。その過程で出会ったのが「ヤンキー文化」であり、斎藤環「世界が土曜の夜の夢なら」だった。


 ヤンキーは日本のマジョリティ


 斎藤環「世界が土曜の夜の夢なら」は、ヤンキー文化について考察した本である。先日紹介した「ヤンキー文化論序説」(以下「序説)と併読すると、ヤンキー文化についての現状もよくわかる。五十嵐太郎によると(「序説」)、「ヤンキー」は、誰もが知っているのに、あまり本格的に語られないと言う(オイラもそう思う)。なぜかと言うと、オタクは批評家体質が強いために、積極的に言葉を語るオピニオン・リーダーが存在したのに対し、ヤンキーを代表する論客がいない。「序説」の数十人の執筆者にも、元々ヤンキーだった執筆者は(たぶん)いないとのこと。


 言葉がないところに文化はない。オイラもまた「ヤンキー」というのは下位文化であり、まともに語るべきものではないとずっと思っていた。ところが、先日紹介したナンシー関のコラム(小耳にはさもう)によると、「銀蠅的なものを求める人は、どんな世の中になろうとも必ず一定数いる」「自覚している人が一千万人、潜在的に求めているのは三千万人」とある。考えてみれば確かにそうだ。ヤンキーとまではいかなくても、ヤンキー的感性の持ち主は、オイラの勤務する進学校と呼ばれる高校にも一定数いる(ついこの間も近所の寅壱で、大学へ進学した卒業生と出会ってちょっとびっくりした)サイレント・マジョリティである彼らは、日本文化の無意識とリンクしている。彼らが気付かれないのは、ヤンキー的感性は、中央よりも地方、高学歴よりは低学歴に宿るがゆえに、研究者や論壇ではマジメに拾いあげられてこなかっただけなのである。


 そして、ヤンキー文化について考えることで、この国の社会・文化的事象をよりうまく説明できる。オイラは「序説」と「世界が土曜の夜の夢なら」の二冊を読むことで、そのことに気がついた。たとえば「世界が土曜の夜の夢なら」では、橋下徹現象を取り上げている。著者の斎藤は「橋下人気」と呼ばれる状況を支えているのが、日本人のヤンキー好きな感性である、と言う。茶髪とサングラスをトレードマークとしていたタレント時代の「キャラ」。弁護士時代に商工ローン企業の顧問弁護士をしていたという「過去」。家族愛やマザコンぶりを隠さない「7人の子供の父親ぶり」(新自由主義的な自立と自己責任を強調する姿勢は母親の子育て姿勢が反映されている)。文化事業の軽視という「反知性主義」等など。


 橋下徹に感じる「ヤンキー的感性」に対する嫌悪感


 逆に考えると「橋下嫌い」を表明する知識人が(敬愛する内田樹先生も含めて)、なぜ「橋下叩き」に走るのかというと、そのバッシングの深層に「ヤンキー的なるものへの嫌悪感」を宿しているのではないか、という斎藤の指摘には、はっとさせられた。言われるまでまったく気づかなかった。たとえば、「ビー・バップ・ハイスクール」、横浜銀蠅矢沢永吉つんく氣志團、ヤンキー語、右翼的アイコン、うんこ座り、根性焼き、学ラン、リーゼント、特攻服、なめ猫、レディース、デコトラ、ヤン車、改造車、暴走、茶髪、カラーギャング(「序説」)。こうしたものを忌避する感性はオイラの心の中にもある。それはオイラがオタク的感性の持ち主であり、学校という権威に従属的であるということの裏返しである。オイラは教員だから、学校に背を向ける彼らのダメさ、傲慢さ、弱さを容認することはできないと、無意識のうちにそう思っている自分に気づかされた。


 オイラは9月15・16日の行われた岸和田だんじり祭に行った。数千数万のヤンキー的感性の祝祭的炸裂に、オイラは圧倒された。考えてみれば朝ドラ「カーネーション」のモデルになった小篠綾子だって、岸和田に生きたヤンキー的感性にあふれた傑物。ヤンキー文化に、語るべきものがない、劣った文化であるというのは、文化相対主義の立場からしても、被差別側からの立場からしても、オイラは賛成できないのである(この項つづく)。