「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」その1



     映画秘宝2004年12月号/2005年1月号




 前もって言っておくと、高校の頃、僕はSFファンとして「スター・ウォーズ(第1作)」に特別の思い入れを持っていた。SFが大人の読み物として十分に認知されていない1970年の後半、典型的なスペース・オペラの映画がアメリカの興収を塗り替えたというニュースを僕はSF専門誌「奇想天外」などで知った。今では嘘のようだが、1970年代まで「SF映画は当たらない」というジンクスがあった。彼の地で「スター・ウォーズ」がヒットしたということは、SFというジャンルが日本で世間に大きく認知されるかも知れない。「子ども向け」と呼ばれてきたSFが、大人の鑑賞に耐えうるジャンルであることを、世間に知らしめることができる。マイノリティであるSFが世間に大きく受け入れられることを想像して、僕は我が事のようにわくわくした。「スター・ウォーズ」は、SFの時代のA New Hopeだったのだ。


変質した「スター・ウォーズ


 あれから二十余年。僕も変わり「スター・ウォーズ」も変わった。はっきりと子ども向け路線を取りはじめた「ジェダイの復讐」に失望し、ついには「商品」と化し映画としての魅力の失せた新三部作を僕は苦々しい思いで見守っている。

 映画秘宝2004年12月号「ジェダイ帰還復讐とスター・ウォーズの時代−そして誰もいなくなった」(武田英明)が、このあたりの事情について詳しく書いている。

 SWが変質したのは、新三部作になってからではなく「ジェダイの復讐」や「三部作特別編」から十分に予想できた、と武田はいう。彼は「ジェダイの復讐」公開時のファンの戸惑いについて、こう記している。


 「とにかく「ジェダイ」の店じまい的な話のまとめ方は、それまでSW世界に心酔してきたファンに冷水を浴びせるような展開だった。「帝国」で初登場し、本作での更なる活躍が期待されたヨーダもボバ・フェットも、これまで名前やホログラム像でしか登場しておらず、本作で実像がようやくあらわになったジャバ・ザ・ハットや銀河皇帝(彼らが前2作に登場するのは97年の「特別編」以降)も、「はい、話はこれでおしまいです」とルーカスが割り切ったあおりを食らったかのように、いともあっさりと表舞台から次々と姿を消していった」


 こうした感想は、僕を含めた当時のファンが「ジェダイ」を観たあとで感じた失望を的確にあらわしていると思う。当時のファンの完結編への期待は、たとえばSF映画誌「スターログ」で、「ジェダイ」のストーリー予想が熱狂的なファンの手によって3年間続いたことなどにも明らかなように「ジェダイ」公開前にはその期待が破裂寸前までふくれあがっていた。しかしルーカスは、この期待をものの見事に裏切ることになる。


「みんなのSW」から「ルーカスのSW」へ


 SWのこうした方向転換の原因について、武田は「自分の予想をはるかに超えるSW次回作への期待が過熱していく状況が、もはや自分の手に負えないほどにふくらんでしまっていた」こと、そして「ルーカスにとって「スタッフみんなのSW」から「自分自身のSW」に取り戻す作業が必然だった」と述べている。

 ルーカスにとってはSWは、作品としての完成度よりも、より観客動員を狙える作品にすることが先決だと考えていた。そのためには、一部の熱狂的なマニアのものではなく、単におとぎ話であり、頭をカラッポにして誰もが楽しめる作品でなければならないと考えた(武田は「観客の知的レベルを低く見積もった愚民政策であった」と言う)。それは、あからさまに子ども受けを狙うイォークというクリーチャーを登場させたことでも分かる。それが巧妙に仕組まれればそれはそれで見ごたえのある作品になると思うのだが、ルーカスの基本稿は「相変わらず支離滅裂かつマンガもかくやの荒唐無稽ぶり(武田)」。

 それを「希望」「帝国」できちんとした作品に仕上げてきたのは、スタッフの献身的な努力だった。しかし、現場で独裁の色を強めていくルーカスは、優秀なスタッフを「ジェダイの粛清」ばりに切り捨てた。「より確実な経済的成功を狙うあまり手柄を独占」しようとしたのである。


 以下、映画秘宝2005年1月号「スター・ウォーズ・トリロジー「特別編」&DVD 「作品」から「商品」へ その変質の真相を探る」(武田英明)からの引用。


 「映画科の学生時代から私的な作品にこだわってきたルーカスにとって、SWもきわめて私的な作品だったから、これほど多くの観客に支持されるとは思わなかった。そしてその予想外の成功は、陳腐さの随所に漂うルーカスの初期構想を、アカデミー作品賞にノミネートされるまでに高めてくれたスタッフたちの功績によるものである・・・・。

 また同時に忘れるべきでないのは、輝かしきSWの時代を作り上げたのは、送り手側だけではなく受け手の側、初公開された当時そのままのSWを圧倒的に受け入れ、熱狂し、愛し、関連グッズまでコツコツと買い集めて貢ぎ続けたファンがいたからこそだったこと、さらに両者の共同作業なしには社会現象にまで盛り上がるはずなどなかったことである。

 ファンがストーリーの骨子にシビレたのなら、それはたしかにルーカスの功績だ(しかしその人数は多くない)。けれど登場するメカのカッコよさにシビレたとすれば(当時の少年たちはみなそうだった)、それはジョー・ジョンストンやモデルメイカーの功績だし、キャラクターのスタイルにシビレたのなら、そこにラルフ・マクフォーリーと衣裳、立体造形スタッフの功績も加わってくる。しかし「特別編」公開やDVD発売で得られる収益は、こうしたオリジナルだけに関与したスタッフに還元されることはなく、逆にまったく無関与だった現LFLの社員たちを潤わせる。つまり、「特別編」という仕切り直しは、作品の権利をルーカスとLFLだけが独占するための通過儀式でもあった。

 ・・・・孤立した王になったルーカスは、自作に全責任を持つかわりに、もはや他者の功績を認めるわけにはいかず、徹底的に自分の味だけを残す以外に道がなくなってしまった。それが支持されないのならそれで結構、そもそも以前の成功がバブルだっただけで、今のSWこそが本来あるべき形だったと割り切っているとしか思えない」(武田英明)