「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」その2




 (7/6付本欄の続きです。まだお読みでない方は、こちらもお読みください。http://d.hatena.ne.jp/furuta2001/20050706



凡庸な演技は誰の責任か

 


インタビュアー 多くの批評で、「EP3」は他のエピソードと比べて演技が評価されていますが?

ルーカス ええと、何とも言えないな。六作品とも同じ演技になるように努めているから、良い評価もあるが、実はそうでもない批評も耳に入っているんだ。その殆どが、作品は愛すけれども、私には脚本を書いたり監督をしたりする力量はない、というものなんだ。だけどこれは今に始まったことじゃない。私は映画監督のキャリア全般において、そう言われてきたよ。

 (キネマ旬報2005年7月下旬号/ジョージ・ルーカス監督インタビュー/テキスト:Ian Freer)



 本人にこんなことを言われてしまうと言葉を紡ぐ気も失せるのだが、新三部作が凡庸な出来に終わってしまっているのは、ジョージ・ルーカスの脚本と演出に帰されるべきものである。

 ルーカスも言っているが、演技に関する手厳しい批評は多い。たとえば、映画秘宝2005年8月号「FBBの映画欠席裁判」には、次のような記述がある。




ウェイン(町山) さて、そのフォード大先生の出世作スター・ウォーズ」。「エピソード3/シスの復讐」で一応完結だけど。いつものことだけど、演技があまりにひどくなかった? ヘイデン・クリステンセンだってナタリー・ポートマンだって他の映画だと演技うまいのに、「スター・ウォーズ」だと凄まじく大根だろ。

ガース(柳下) 柱の蔭に読んで「できちゃったの」って告白するシーンが凄かったね(笑)。

ウェイン やっぱりグリーン・スクリーンの前で芝居するのって役に入れなくて感情を込めにくいんじゃないの? もしくはルーカスがまったく俳優の演出ができないせいだな。裏切られて殺されるジェダイの女騎士なんて、表情や動きに「演出」がまるでつけられてない。

ガース 「右から左に動いて倒れる」というシナリオの動きを無表情でやってるだけ。(以下略)


書き割りの絵のような「演技」


 演技をする余地があるから、演技者は演技ができる。ドラマの優れた台本や演出には、そうした余地が前もって仕組まれているものだ。役者の振る舞いや身振りが契機となってドラマが展開される作品こそが、有機的に演技とドラマがかみ合っている作品こそが、演技的に優れた作品と言えるのである。

 「スター・ウォーズ」新三部作では、作り手はあらかじめ決まった物語の展開をなぞることに精いっぱいで、役者はまるで書き割りの絵のようだ。もちろん紙芝居には紙芝居の良さがあるが、中途半端な心理描写のせいで、そうした良さも「スター・ウォーズ」には薄い。


 これは、作り手が役者の背景をいたずらに複雑にしたせいではないか。新三部作になって、物語は複雑になった。またCGの進歩によって、精緻な背景の描きこみも可能になった。だが、それは是なのか。最初の「スター・ウォーズ」はむしろ単純だったではないか。

 最初の「スター・ウォーズ」の成功は、神話的構造を持つ単純かつ力のある物語に、スピード感あふれる身体の連続的な躍動がうまく組み合わされたことが大きい。「帝国の逆襲」でもしかり。(「ジェダイ」や「エピソード1」でもルーカスはその再現を試みるが、決して成功しているとは限らない)いたずらに背景を複雑化させることは、演技の矮小化に拍車をかける。


背景を描きこめば描きこむほど「演技の精度はごまかせる」


 劇作家の別役実が「何もないこと」というエッセイの中で、次のようなことを述べている。

 「私は高校時代、絵の勉強をしていた。毎日、木炭で石膏のデッサンをしていたのである。もちろん石膏のデッサンの場合、背景は白くそのまま残しておく。しかし、或る日先輩の一人が、芸大の入試で背景を黒く塗りつぶすことが許されているそうだ、という情報を手に入れてきた。言うまでもなく、背景を黒く塗りつぶした方が、デッサンの間違いを隠しやすいし、全体がきれいに仕上がる。そこで私達は。早速その方法を試み始めた。ところが、私達を教えていた老教師がそれをやめさせたのである。「絵が下品になるから」と老教師は言った。

 私達はふんまんやるかたなかったが、しかし今になってみると、その老教師の言ったことがよくわかるような気がする。それが「下品になる」かどうかはともかく、背景を黒く塗りつぶすことによって、本来「造型的」であってしかるべき石膏デッサンの仕事が、どちらかと言えば「文学的」になりはじめたのは否めないからである。私達は、石膏像のそれぞれの面が如何にメカニックに組み合わされているかというその精妙さよりも、それがアトリエのどのような空間に置かれているかという、いわば雰囲気のようなものを重要視するようになってきていた。そして、その置かれた空間の雰囲気を特殊化すればするほどデッサンとしての精度はごまかせるのである」

 別役実「何もないこと」(白水社「電信柱のある宇宙」所収 1977初出)

 

 別役のこのエッセイは、絵画のことを例に取りながら、演技・演出の本質的な部分に触れた、とても優れた演技・演出論である。ここで書かれていることは、「シスの復讐」にも言えるだろう。作り手が物語の背景を描きこめば描きこむほど「演技の精度はごまかせる」。逆に役者の存在感は背景に埋没してしまって立ち上がらない。

 ルーカスはとても大きな物語を描いた。「スター・ウォーズ」の登場人物は、その物語を説明し、奉仕するための役割しか割り振られていない。せめて登場人物への愛情を、もう少し注いでやればどうか。

 ドゥークー伯爵も、粛清されるジェダイ騎士も、いかにもあっけなく「物語の都合で」殺されていく。ここまであからさまな登場人物軽視も珍しいと思う。


 こんな別役の言葉もある。先述「何もないこと」からの引用である。

 「もっと簡単に言えば観客は、演劇では常に異常な、そして「非日常的」なことが行われるに違いないと考えてしまっている。従って、それが異常であればあるだけ、それを、演劇的「日常性」として消化してしまうのである」


 「演劇」は「映画」に置き換えてもいい。別役の考えを元に考えれば、なぜ観客がCGの映像に飽きてしまうのだろうかが分かる。「映画」の世界では「非日常的」なことが当たり前である。作り手がそれを見せ場にしようと、CGにより精緻に描きこんでも、(「CGで描いた世界」という意味において)それは「見慣れた風景」なのである。CGが精緻であることは、観客にとっては「当たり前」(もちろん客観的なCGの出来に対する評価はまた別として)。観客は「ああまたCGを使っている」と解釈して思考停止に陥ってしまうのである。




 ドラマの「葛藤」の内容について書きたいことが少しだけ残ってしまった。ということで、もう一回だけ「シスの復讐」については書く予定です。


スター・ウォーズ/エピソード3:シスの復讐@映画生活



電信柱のある宇宙 (白水Uブックス―エッセイの小径)

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