第27回高知高校演劇祭 その14


上演15 春野高 阿藤智恵作「しあわせな男」


 別役実の影響を受けた、スリリングな既成台本である。何者でもない人びとが、家族の真似ごとを始める。父親を演じる「男」は、やがて「家族ごっこ」を受け入れ、家族のある幸せを実感するが、家族の暗黒面もまた知らず知らずのうちに再現され、誰が入れたかもわからない「毒」によって、ラスト、男は倒れてしまう。


 関係性がゆるやかに変化していく「演劇的」な状況を見せるために、細かいところまで神経の行き届いた舞台であった。昼でもなく夜でもない時刻、家族でもあり家族でもない人びと、日常と非日常の境目、「酔いつぶれているのか死んでいるのかわからない男」等といった、「あいまいな状況」をうまく舞台の上に現出して、演劇的な連続する状況の変化をきちんと見せていた。そういう意味では「高校生が多様な年齢の人を演じている」と言うのもまた、あいまいな状況の一環であり、高校生が年配の人たちを演じるのを逆手にとっているとも言えた。


 加えて役者の外見やふるまい方が繊細で、多様な年齢の描きわけがよくできている。「高校生が演じている」というエクスキューズなしに、芝居に入りこむことができた。また経験のある人が抑え気味の演技をすることで、いい形で役者のアンサンブルが機能していたと思う。演技や舞台美術など、細かいところまで神経がゆき届いて作られているので、椅子を引いたときのヒュルヒュルという音までが、効果として仕組まれたものとして客席まで届いてきた。高校演劇のレベルを超えたところで楽しませてもらった。


 ただ、あえて言えば、台本が教条的なまでに別役的にあろうとしているので、芝居の構造に関するイデオロギッシュな側面があからさまに先に立ち、芝居としてのおおらかさや広がりに欠ける気がした。構造的には、もう少し大きな視点からの、現代の家族制度や社会に対する、作り手の批判的な視点を、たとえば効果音などを追加することで感じさせることができれば、内容的にも広がりが出たのではないか。また、演技的にも、抑制的な諧調で仕上げるだけでなく、役者の身体性を感じさせるような「遊び」を企むことで、役者の記号化やむやみな抽象化に陥らずに、台本の教条性を薄めることができたのではないかと思う。