「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」その3




 (7/6、7/10付本欄の続きです。まだお読みでない方は、こちらもお読みください。・7/6付「慟哭の記録」、・7/10付「演技の問題」



 以下は映画秘宝2004年12月号「ジェダイ帰還復讐とスター・ウォーズの時代−そして誰もいなくなった」武田英明)からの引用。


 ルーカスの意を汲まぬクルーの粛清はほぼ終わっていたが、忠誠心が裏目に出て「ジェダイ」での最大の犠牲者になったのは、デザイナーのジョー・ジョンストンだと思われる。

 ・・・・ジョンストンは「ジェダイ」の第2デス・スター周辺で繰り広げられる帝国軍対反乱軍の艦隊総力戦を、「新たなる希望」のデス・スター特攻より何倍もスケールアップして、スペースバトルの集大成とすべく綿密な構成を練り上げた。

 ところが彼がこだわり抜いた一大宇宙空間戦闘は、その展開の要所さえもバッサリとカットされてしまい、劇を彩る単なる飾りとしか機能しなくなってしまった。その一方で優先されたのは、もたつくテンポで退屈きわまりない皇帝とベイダー、ルークの心理戦・・・・。

 全銀河の雌雄を決する要因が、なぜしょせんは個人に委ねられてしまうのだろう? そもそもこれは戦争映画ではなかったのか? ジョージ・ルーカスにとってはストーリーの主軸として絶対に譲れない、この父子対決というプロットが、銀河規模に広がっていた作品世界を一挙に身内のいざこざレベルまで矮小化してしまう結果となり、もっと見せるべきものがあるというジョンストンとの意識のズレは、ここにきて決定的となった。

 以後ジョンストンは自らが映画監督になることを決意。84年に33歳でわざわざUSCの映画科に入り直して、「ミクロキッズ」「ロケッティア」「ジュマンジ」と次第にキャリアを重ね、「遠い空の向こうに」では幾多の映画賞でノミネートや受賞を果たすまでになる。(太文字引用者)


「若気のいたり」が全銀河の運命を左右する(!)「シスの復讐


 上の文章は「ジェダイ」への言及だが、「シスの復讐」に対する僕の違和感も、ジョンストンの違和感とそっくり重なる。全銀河の雌雄を決する要因が、なぜしょせんは個人に委ねられるのか? アナキンの「若気のいたり」が全銀河の運命を左右するというプロットは、あまりにも荒唐無稽過ぎるのではないか?

 別に全銀河を巻き込まなくてもいい。世界は自分とは無関係に回っている。そのことを実感するのが大人になるということだ。全銀河がアナキン中心で回っている物語、という意味では、ルーカスの意図通り、エピソード3は結局「子ども向け」の世界なのだと思う。


 子ども向けであるからこそ、ルーカスの世界では、主人公は「若者」であるべきだし、葛藤は子どもにでも分かる類いのものでないとならない。アナキンが暗黒面に落ちるきっかけも、周囲の者に対する愛情や不信、本人の野心といった、子どもにもなじみのある感情でなけれならない。その結果、全銀河を巻きこむにはいささか重厚さに欠ける葛藤がドラマの根幹に座ったのだろう。

 アナキンの危機は、とても現代的だ。今の若者の「危機」そのものだ。新三部作は(バタ臭く青臭い)ティーンの挫折物語だ。ルーカスはそれを大真面目に時代がかった正攻法でどこまでも青臭く描いてみせるのである。「シスの復讐」はそうした物語だ。


選ばれし作品だったのに!


 形式的に言及すると、「シスの復讐」は、主人公の葛藤と成長(挫折)という、シェイクスピア以降の「近代人としてのドラマ」の骨格をまとっている。

 最初の「スター・ウォーズ」は、「神話的物語」の形式を持っていた。それはとても力強い物語だった。一方「近代人のドラマ」は、基本的には個人的なドラマである。全銀河を巻きこむには、どうしたって作品世界を矮小化しなければならない。「子どもにもわかるように」「物語をあたふたと展開」させれば、ますます物語は説明調になる。

 「スター・ウォーズ」に「近代人としての葛藤」を掘り下げ接合することが本当に必要なのか? ドラマの核をなす葛藤や感情は、子供向けに単純化されたものにすぎないのに? もっと神話的な物語の形式の作品にすることはできなかったのか?

 等々、僕には疑問符だらけである。


 だが「この作品が出来て幸せだ」「望んだ以上によいものになったと思うよ」とルーカス自身は述べている。ルーカスはやろうとしていたことを貫きやりとげたのだ。自分の作品を、外野からの雑音や圧力から守り通した。ルーカスがこんな作品にしたかったというなら、「シスの復讐」はそもそもそんな映画なのだ。

 作品は作り手のものだ。しかし同時にみんなのものでもある。少なくとも、高校生の頃の僕が観たかった「スター・ウォーズ」は、こんな映画ではない。


 《選ばれし作品だったのに!》という苦い思いで、僕はいっぱいだ。