家族ゲーム


家族ゲーム [DVD]

家族ゲーム [DVD]


 森田好光逝去の知らせを聞いて観直した。1983年。勉強のできない中学生の次男のところにやってきた家庭教師。家庭教師のおかげで次男の成績は上がり、上位校への進学を果たすことができる…。松田優作伊丹十三由紀さおり宮川一朗太森田芳光出世作で、森田芳光らしい作品を一本あげるとすれば、本作だろう。これを森田は33才で作ったのだ。キネマ旬報ベストワンほか受賞多数。


 極めて演劇的な映画「家族ゲーム


 初めて見たのはオイラが大学生のとき。まだ小津安二郎も知らず、当たり前だが平田オリザも知らなかったオイラにとって、今までに見たことのないこの映画の「不思議な感じ」の面白さを、当時はうまく説明することができなかった。改めて見返してみて、この映画が演劇的な手法を使って作られていることに気づく。


 まず発声法である。この映画は、ぼそぼそ喋る。ビデオで観たので、実際のフィルムのサウンドトラックがどうなっているのかは確認できなかったが、あまりにもぼそぼそと小さいので、聞き取れなかったセリフすらあった。とくに家庭教師を演じる松田優作は、ほとんど抑揚のないぶっきらぼうな喋り方で、必要以上に感情を説明することはない。


 ニクい小津安二郎的表現−説明を忌避する「家族ゲーム


 その喋り方で思い出したのは、小津安二郎である。小津は、日本の家族の日常の姿を何度も繰り返し描き、ホームドラマの原型を作り上げた。その登場人物もまた、抑揚のない棒読みで淡々と喋る。「家族ゲーム」には、カメラを固定し、シンメトリーにこだわったLDKの「風景」を、ほぼ目線の高さから水平に構えたアングルで撮影した長回しのカットがいくつかあるが、森田が小津安二郎から引用した絵作りをしていることは明白である。一見どこにでもある「家族」の日常を描いている作品であるということも、小津安二郎の諸作品のめざすベクトルと重なる。


 小津安二郎は、役者に、あえて「棒読みするように」と駄目出しをしたと言われる。必要以上に役者に気持ちを入れさせずに、あえて機械的に喋らせることによって、演技が説明的になることを避けたのだろう。「家族ゲーム」でも、その喋り方が、同様の効果を生んでいる。


 そう「家族ゲーム」は、ほとんど説明をしないのだ。絵で見せていく。凡庸なカットがほとんどない。上から撮影した緑色の運動場。ガスタンクを背景に、枯れ草の広がる工業地帯の空き地を、中学生とともに横移動するカット、松田優作が次男をなぐるシーンを、ガラスでできたテーブルの下から撮影したカット等、印象的なカットは多数ある。


 パンフォーカスの多用はクロサワの影響か


 今回観ながら気づいたのは、パンフォーカスを多用していることだった。これをして黒澤明の影響か、というのは短絡的に過ぎるかもしれない。だが、数年前に森田が、黒澤明の「椿三十郎」のリメイクを、オリジナルの台本のまま製作した時に、その製作意図がオイラにはピンとこなかった。だが、パンフォーカスといい、「赤ひげ」へのオマージュとも言われる横並び家族の食事シーンといい、森田は黒澤明の影響を大きく受けているわけで、それはこの作品ですでに示されている。とすれば、あのリメイクは、森田芳光黒澤明に対するオマージュの集大成だったのだろう。。


 話を元に戻す。演劇的な要素のふたつめは、長回しである。ラストの「最後の晩餐」風の、家族プラス松田優作扮する家庭教師が食事をする10分以上の長回しを筆頭に、長回しが多い。カットを変えないことによって、緊張感のある役者の演技をじっくりととらえることができる。何げないセリフの応酬が息詰まるシーンに見えるのは、この長回しの力だろう。


 演劇的な要素の3つ目は、BGMの不使用である。映像芸術と比べると、ミュージカルなどを除くと、演劇は音楽を最小限しか使わない。情緒に流れると、演劇は映像以上にウソっぽくなる。森田芳光の演出は「乾いている」。感情に流れない。論理的である。映画の中にあるものには、すべて意味がある。読み解け、という強いメッセージを感じる。


 「ぼそぼそ喋る」「長回し」「BGMの不使用」、そして「説明の徹底的な回避」が、作品を演劇的に立ち上げる。演劇的だからこそ、観る者のイマジネーションを借りて作品は完成される。たとえば「横に並んで食事する食卓」「次男の部屋にある、金属球がぐるぐる回るジェットコースターのようなおもちゃ(スペースワープ)」「ラストのヘリコプター音」など、映像で見せている「表現」のパーツパーツにどんな意味があるのか、直接説明はない。しかし説明しないことが、かえって観客の想像力を刺激する。ソレニハ意味ガアッテ、ソコニ「アル」。観客のイマジネーションが、意味づけを求めて作品を補完していく力をうまく利用して作られているのである。


 この映画を初めて観たとき、「不思議な感じ」をうまく説明できなかった。演劇をかなりかじったオイラには、この映画の意味を、演劇的な見地から説明することができる。だからこそ、オイラの勤務校の演劇部の高校生諸君に、この作品を見せたいと今回強く思った。この映画をテキストにして、映画(演劇)を分析する力を養うことができる、何て豊かなのだろう、そうオイラは確信したのでアリマス。