リアル・スティール



 (映画の結末に触れています)
 ロボットによるボクシングが行われている近未来、ふとしたきっかけで手に入れた旧型ロボットで試合に参加することで、おちぶれた元ボクサーの父と子が絆を深めていく。父親役にヒュー・ジャックマン、監督は『ナイトミュージアム』のショーン・レヴィ


 ロボットによるボクシングは殺伐として暴力過剰に思え、最初は感情移入できなかった。人間の体と違って、ロボットは殴られると「へこむ」。壊れて腕がちぎれたりする。ロボットがかわいそうだ。


 物語は単純で定型的。説明過多のセリフと単調な筋書きのオンパレード。大人の事情を単純化してセリフで説明してみせるのは、この作品が子供向きだからか。冒頭、借金に追われ、身をもちくずした元ボクサーが、ホイホイと親権放棄するくだりまでの描き方も、類型的で凡庸。子供向けなら、場末のロボットオーナーの父親(ヒュー?ジャックマン)を主人公として描くのではなく、むしろ子供の視点で物語を紡ぐべきだろう。


 虎の子のお金で購入した「ノイジーボーイ」というロボットを性急に試合に出し、未熟な操縦技術でオシャカにしてしまう後先考えない主人公は、性格破綻者に見える。よく引き合いに出される「ロッキー」と比べると、この主人公は、粗雑で大味で作り物めいていて、感情移入をさまたげる、つまらない、これが前半のオイラの印象だった。


 ロボット時代における「父親=身体」性の復権


 ところが俄然よくなるのは中盤から。ごみ捨て場から拾ってきたロボット「アトム」を前に、元ボクサーの父親役のヒュー・ジャックマンシャドーボクシングをする。アトムには模倣機能があって、元ボクサーのパンチを「学習」するのである。鍛えられたこのシャドーボクシングの場面は、ぐっとくる。ボクシングこそ父親の誇り。父親が伝えるべきものである。言葉ではない。「身体」のリアリティこそ意味がある。


 このシャドーボクシングが伏線となって、ラスト、模倣機能で、チャンピオンのロボットをダウンさせ、元ボクサーは父親としての誇りを取り戻す。ラストでクローズアップされるのも、元ボクサーのシャドーボクシング、つまり「身体」である。


 ラストのセリフ。大一番に買った親子。不器用な父が「お前に言いたいことがある」と言い、息子が「いわなくても分かってるよ」と返す。この映画は、言葉ではないコミュニケーションの伝達、つまりロボット時代における「身体』性の復権を高らかに謳いあげる。それが「ロッキー」のラストのコピーのようなクライマックスにヌケヌケとつながっていく。オイラも男の子なので、マッチョでストレートな感じ、正直嫌いではない。いささか単純すぎるきらいはあるが…。