なぜ高校生は受験体制を批判しないのか


高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)

高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)


 3/12付エントリー小林哲夫「高校紛争1969−1970」を読むと、1970年当時の高校生の批判の矛先は、受験特化型教育に向けられたことが分かる。「能力別クラス編成」「理数系クラス設置」反対など、高校生を受験制度に組み込む教育を拒否した。高校は大学受験予備校ではない、受験対策的な試験や授業は改めるべきだ、試験制度は、教師にとって生徒を管理するのに最も都合のいい制度である。そんなことを叫びながら、バリケードを作り封鎖して、学校側と戦った。


 オイラは高校で演劇部の顧問をしているわけだが、一昔前までは、受験体制批判などをテーマした作品が、コンクールなどで、よく上演されたものだった。しかし、今はそうした作品をほとんど見かけない。いくら少子化とは言え、進学校に通う高校生にとって、今でも大学受験はストレスである。これは間違いない。だからこそ、今の制度に疑問を持ち、異議申し立てをしたり、制度を変える運動に取り組む高校生がいてもおかしくはないと思うが、実際はそんな高校生はほとんどいない。多くの者が、黙々と大学受験に向かっている。


 どうして高校生は受験体制批判をやめたのか。それらしき答えはすぐに思い浮かぶ。高校生の気質が変わった、少子化ゆとり教育のおかげで大学受験が緩和された、等など。だが、オイラはどうもしっくりこない。そんな一言では、高校生や社会の変化を的確にとらえているとは言えないのではないか。何がどう変わって、高校生にどう影響を与えたのか、オイラはそれを知りたい。具体的に考察したものを読みたい。


 今の高校生はおとなしすぎる。物分かりがよすぎる。つくづくそう思う。別に昔の高校生が高尚だったなどというつもりはない。高校紛争を舞台にした、村上龍の「69 sixty nine」では、「女生徒にもてたいがため」に背伸びをする下品な愛すべき高校生が描かれている。動機は案外そんなものだ。政治思想を語り、学校や社会批判をし、サルトル、ジュネ、セリーヌカミュバタイユ、A・フランス、大江健三郎の本に傾倒したり、バンドを結成してビートルズローリング・ストーンズの曲を演奏したり、みんな「女にもてたい」から。そうした妄想のエネルギーもまた、昔の方が強かったのではないか。なぜ衰えてきたのだろう?


 今の高校生と昔の高校生。高校生の変化の実相を見つめるなかに、高校生を元気にするヒントがあるように思う。そのことをしばらく考えてみたいと思う。


69(シクスティナイン) (集英社文庫)

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