オイラの『「当事者」の時代』


 ちょっと硬めの話になる。ご容赦願いたい。


 6月10日付エントリーでも触れたが、佐々木俊尚『「当事者」の時代』には「マイノリティ憑依」という概念が出てくる。これはマイノリティ(被害者)の立場を先取して、自らを正当化しようとする態度のこと。もっとも、被害者の立場を先取して、権利を主張すること自体は、近代市民革命以降、権利請求の標準的なありかたとして、普通に取られてきた態度である(By内田樹)。ここで佐々木俊尚が「マイノリティ憑依」として取り上げているのは、もう少し限定的な概念であり、とくにマスコミや市民運動が、マイノリティ(被害者)の代弁者になることで、当事者性もないのに絶対的な批判者の立場を獲得しようとすることを指しているとオイラは理解した。


 『「当事者」の時代』で描かれている1970年代以降の状況は、学校現場の状況にもそのまま当てはまる。オイラは四国の公立高校で、人権教育に30年弱携わってきた。人権教育は「同和教育」と呼ばれていた。同和教育とは、同和問題の解決をめざす教育である。よって女性問題や外国人問題、高齢者や子どもの問題など、部落問題以外の人権問題が取り上げられることはほとんどなかった。部落問題が中心的な課題として取り上げられたのだった。1980年代までは、研究発表会などで部落問題以外の人権問題を取り上げようものなら「同和問題の困難さから逃げている」と批判された。今から思えば、結構硬直化した状況だったのだとオイラは思う。


 だから、部落出身の教員や高校生が、同和教育の主体になった。部落出身であることを明らかにして、そのことを押し出して活動している者も多かった。その方がやりやすかったからだ。それ以外の、被差別部落出身以外の教員や高校生の方が、むしろ肩身が狭かった。彼らは活動家から信用されにくい。能力的にはリーダーの器を持った高校生が、被差別部落出身でないだけで、高校生の活動のリーダーになることができなかったりしたこともあった。また部落出身以外の者は「被差別の側に立っているか」どうかを絶えず自分に問い直さなければならない。部落出身者なら、部落問題が自らの問題であるのは自明のこと。それ以外の者が、当事者性を保ちながら「被差別の側に立つ」のは、丁寧で誠実な自己省察を必要とする。それは意外と困難なことだった。


 なぜ困難な状況にあるかと言うと、学校と同和問題の間にも、いびつな二重の関係が存在したからである。それはちょうど、メディアと権力のねじくれた関係にも似ている。同和教育こそは、進路保障(進学校においては「有名」大学に高校生を合格させることだ)とともに、大切な教育である、と対外的にはどの校長も言う。だが心の底からそう思っているかは別問題。もちろん進路指導の方が大切なのである。同和教育は、てっとり早く学校の体裁をつくろうためのもの。一部の校長を除き、同和問題について、通り一遍の、表面的な知識しか持ち合わせていない校長の方が多かったように思う。同和教育担当者以外の、同和教育にそれほど関心を持たない過半数の教員のホームルームでの取り組みも、体裁を整えるといった域を脱するものではなかった。だから同和教育担当者が頑張りすぎると、かえって学校では疎ましく思われてしまう、そんな学校も少なくなかった。


 そんななかで「被差別の側に立つ」ことは、個人にしてみれば、結構困難なことだった。部落出身者以外の教員や高校生の中には、部落出身者を羨ましく思う気持ちを持つ者がいても、おかしいことではなかった。部落出身者の方が、いろいろな面でやりやすい。現にオイラの真面目な近隣校の教員は「被差別者の気持ちを理解するために、部落内に部屋を間借りしたい」などと語っていた。つまり、差別を受けない側の人間が、差別を受ける側の人間を羨ましく思うという、ある種倒錯した状況があったのである。


 その後同和事業関連の法律が期限切れを迎え、同和教育は人権教育と名前を変えた。人権教育は、同和問題だけを扱う教育ではなく、人権に関する諸課題を取り扱う教育に変わった。そのことの功罪はさておき、少なくとも部落出身以外の者が、部落出身の者を羨ましく思うという倒錯した状況はなくなったと思う。だが、同和教育をおろそかにする、いびつな二重の関係は学校にそのまま残っている。


 そういう状況の中、オイラは、今後の人権教育の存在意義は、学校における教養主義の拠点になることだと考えている。1970年の高校紛争では、高校生の批判の矛先は、受験特化型教育に向けられた。「能力別クラス編成」「理数系クラス設置」反対など、高校生を受験制度に組み込む教育を拒否した。高校は大学受験予備校ではない、受験対策的な試験や授業は改めるべきだ、試験制度は、教師にとって生徒を管理するのに最も都合のいい制度である。そんなことを叫びながら、バリケードを作り封鎖して、高校生は学校側と戦った。その思いに共感したかつての心ある教員の中には、カリキュラムや教科書からあえて離れた授業を展開した教師もいて、そうした教師の授業に感動した高校生も少なくない。先日紹介した春山満氏は、本校の講演会のなかで、一年間をかけてDNAについて授業を展開した生物の教師についてのエピソードを熱く語ったのだった。


 今も昔も受験体制というレールがあって、それに乗ることが進学校を標榜する高校の姿である。昔と違うのは、そのことに異議申し立てをする教員や高校生がいなくなったことだ。状況に適応する力だけが養われ、状況を批判したり、ひいては社会を変革する力が失われている。人間らしい姿を取り戻す力になるのは、オイラにとっては人権教育であり、演劇である。そう信じて日々の教育に取り組もうと思いを新たにしている。


2012.6.10フルタルフ文化堂 レビュウ「当事者の時代」
  http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120610/1339456680


「当事者」の時代 (光文社新書)

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