「フルタルフのひとりごと」第一回「高校生はなぜ受け身になるのか」


 「フルタルフの教育ひとりごと」第一回は「高校生はなぜ受け身になるのか」です(勝手に連載風にしてみました)。今回は、教師と高校生の毎日の接点であるSHRのお話です。


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 SHRのコミュニケーションって、教師→学生への、いわゆる「伝達」中心のコミュニケーションです。そもそも5分とか10分だから、伝達以外のことはできにくい構造になっています。基本的に教師は真面目ですから、その短い時間内できちんと伝えようとします。教師が伝達に丁寧に取り組めば取り組むほど、「指示する人(教師)」「指示される人(高校生)」という関係が硬直していきます。これは構造的な問題です。


 たとえばオイラの勤務校では、テスト前に毎朝各クラスで「カンニングをするな」と、やかましく言います。でも「カンニングはしてはいけない」ことを分かっていない高校生なんて、少なくともオイラの勤務校には、いないわけです。毎回これを繰り返すのは、ある意味高校生をバカにして、安く見ているか、または教師が高校生を信頼していない証です。高校生にとっては、ここは本来怒るべきポイントです。


 でも、現実問題、多少口やかましいと思っても、高校生の皆さんは、はいはいと受け流しています。教師の指示に、いちいち反応して「やめろ」などと言うのも大人気ないし、無駄なエネルギーが必要です。学校ってところは、ほかにもうんざりすることが多くて、ある意味鈍感じゃないとやってられない場所なのです。


 一方教師側は「カンニングするな」と言っておかないと、指導責任が問われかねないと思い込んでいます。仮に目の前の高校生たちが、非のうちどころのない信頼に足る高校生たちだとしても、「万が一」の可能性はあります。要するに指導のアリバイ作りです。とくに管理職にとっては「日ごろから指導をしているのですが」と残念そうに言い訳できる状況こそが必要なのです。


 だから「カンニングするな」は、いつまでたっても止められません。そこにあるのは高校生のためのコトバではなく、教師の都合のためのコトバです。体裁を整えるために、目の前の生徒には関係なく、空疎なコトバが、くどくど伝達されているのです。

 
 学校には「万が一のため」のコトバが充満しています。それを担任は、ただ上から言われたからと言って伝達し、それを高校生は受け流す。そんなことを毎日毎日繰り返していると、教師も高校生も「上意下達」の伝達スタイルに疑問を持たなくなってしまいます。


 ほんらい「カンニングをするorしない」「正義を貫くか否か」というのは、高校生が葛藤を経て克服しないといけない課題です。毎回毎回「カンニングさせないように」注意喚起することは、高校生が葛藤し克己心を発揮し、自己の弱い心を乗り越えていく機会を、当の本人から奪っていることになるのではないのか、とオイラは思うわけです。


 教師の課題は「カンニングさせないこと」ではなく、「高校生の成長を支援すること」だとオイラは思います。


「さいきんの高校生は子供っぽい」なんてことがずっと言われていますが、そういう立場に高校生を追いやっているのは、教育や指導に無自覚な教員の側でもあり、教員にはその自覚がない、というのが、根が深いなあとオイラはしみじみ思う毎日です。