ドラゴン・タトゥーの女



 オイラの近くの映画館では、公開が終わってしまった。最終週の上映にギリギリすべりこみセーフ、なんとか映画館で見ることができた。デヴィッド・フィンチャー監督、ダニエル・クレイグクリストファー・プラマールーニー・マーラ


 リメイク作品とは言え、さすがフィンチャー作品である。独創的で刺激的な「表現」は、この映画でも健在で、フィンチャー監督ならではのオリジナリティが強烈に感じられる。凝りに凝ったスタイリッシュなタイトルを見よ。人間の内面にとぐろを巻く、理性では押さえつけることのできない衝動が視覚化された、印象的なCGに魅了された。BGMはレッド・ツェッペリンの「移民の歌」!(早逝した希代の名レスラー、ブルーザ・ブロディを連想するのは80年代プロレス・ファン限定か)。否応なしにフィンチャーの世界へ誘われるオープニングである。


 ストーリーは原作と大きく変わらない。40年前に孤島で起こった少女失踪事件の謎を、雑誌ライター(ダニエル・クレイグ)がときほぐす。孤島はスウェーデンを代表する大富豪の持ち物で、そこに住む個性的なジジババ(ナチとかいる)が容疑者。クリストファー・プラマーをはじめ、それぞれの役者に結構な存在感があり、まるで横溝正史のミステリのよう。


 しかし、何と言っても強烈な存在感を放っているのは、主人公の雑誌ライターと行動を共にする鼻ピアスとボンテージ・ルックの「ドラゴン・タトゥーの女」(ルーニー・マーラ)。前半自分をレイプした犯人をサディスティックに復讐するサマには鬼気迫るものを感じさせ、ラスト近く、犯人を追いつめる際に主人公に言った「殺していい?」というセリフが忘れられない。彼女は、雑誌ライターとの性交描写では淡泊で自己中心的だが、暴力場面では途端にサディスティックな衝動が噴出し、生き生きとなる。その衝動は犯人の狂気じみた殺人衝動と共通するものだ。そうした衝動が我々の中に確かにあることを、この映画は教えてくれる。


 独創的な音響が怖さを増幅させる


 この作品、映画化は2度目である。前作は本家スウェーデンで映画化された。ニールス・アルデン・オプレヴ監督による『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』がそれ。D・フィンチャーによる新作は、スウェーデン版と大きく違うが、何といってもリメイク版の方が優れているのは、音響である。フィンチャーの新作を見た後にスウェーデン版を見ると、スウェーデン版の音響はテレ・フィーチャーに思えてしまうほど。フィンチャー版では、不安をかきたてる独創的な音響が、さりげなく通底され、いつの間にか忍び寄って、怖さを効果的に増幅させる。


 スウェーデン版がテレ・フィーチャーに見えるのは、和製の2時間サスペンス物のように、真犯人を隠蔽する、いかにもなミスディレクションがはめこまれているからだろう。ミステリ映画として見れば、それはとても効果的なのだが、犯人探しにこだわりが強いスウェーデン版は、所詮はミステリの枠内の作品である。

 
 これに対し、フィンチャー版は、物語を語ることには、あまり関心がないように思える。作り手の関心は、ストーリーよりも、登場人物の存在感を高めることに主眼が置かれている。おかげでフィンチャー版は、適度に分かりにくく、ミステリ的な風味が薄れた「映画」になった。この改変を、オイラは歓迎したい。ジャンル映画が悪いわけではない。だが狂気と相対する人々のスリリングな緊張感を描ける監督だからこそ、メカニカルなミステリ的ストーリーを描くだけだと不満が残る。その点この映画は大成功だとオイラは思うのだ。