村上龍「69 sixty nine」


69 sixty nine (文春文庫)

69 sixty nine (文春文庫)


 綿密に取材された「高校紛争 1969−1970」にも村上龍之助こと村上龍の記述がある。村上龍之助は村上龍の本名。彼は佐世保北高等学校在学中に高校の屋上にバリケード封鎖を敢行し、無期限謹慎処分となったあと、市内の文化会館を借り切って「フェスティバル」を開催する。そうした波乱に満ちた高校時代を綴った自伝的作品が「69 sixty nine」。


 前述の「高校紛争 1969−1970」の証言によると、本書の内容は「9割がた本当のこと」だそうだ。次々とバリ封やフェスティバルを取り仕切るサマは、村上クンの比類なき実行力を感じさせるが、さらにスゴイのは、そのエネルギーの源が「女にもてたい」という一点だったことを告白し小説に通底させていることだ。


 エロの力が自らの力の源泉。直感的にそのことを自覚し、繕うことなく書ける。「なしとげていく」主人公のエネルギーに説得力がみなぎる。それができる村上は、根っからの表現者なのだなとオイラは思う。正直さや選別眼やセンスを見習いたい。


人間を解放する装置となるべき学校は、今や抑圧の装置である


 教師だって必要とされていることは同じ。本質を見抜く眼。それをコトバにする力。訴える力。それが、抑圧から人を振りほどいていく。


 本来は人間を解放する装置となるべき学校は、今や抑圧の装置である。主人公は言う。「何かを強制されている個人や集団を見ると」「不快になる」。体制の中で退屈して生きる者には「一生、オレの楽しい笑い声を聴かせてやる」。ルサンチマンが彼を突き動かす。学校や教師は反面教師だ。主人公にそう思わせるだけでも「69」の高校は意味がある。


 今の学校は、変に物分かりがよい。だがコンプライアンスの名の下に、教師を抑圧し、受験の名の下に高校生を抑圧する。中にいる教師も高校生も、そのことに気づかない、あるいは気づいても異議を唱えない。飼い馴らされた人々。それが今の学校であり社会である。


 「ライ麦畑でつかまえて」以来、無数の模倣者を生み出した一人称の語り口は青春小説の王道、ところどころに大きな活字の文字を組み込んだスタイルは、スローガンを書いた立て看板を彷彿とさせたり、ラジカルさを演出する内容に合ったニクい表現。


 1968年パリ5月革命の落書き集「壁は語る」
 http://d.hatena.ne.jp/posada/20050101