諏訪哲二「いじめ論の大罪/なぜ同じ過ちを繰り返すのか?」中公新書ラクレ


 2013年1月に発足した総理の諮問機関である教育再生実行会議の有識者メンバーを見ると、復古的かつ利益誘導的な色ばかりが目立つ。広く意見を聞くための諮問機関ではなく、復古的かつ一部の人々の利益が得られるように、性急に教育制度を変えてしまいたいという欲望が、あからさまに見える。このメンバーで日本の教育のグランドデザインを決めるなんて、正気なのかと本気で心配してしまう。


 教員の立場からすると、教員の意見を代弁してくれる人がいない。学校のリアリティを、学校外の方にうまく話してくれる人が委員に入っていないのは、誰にとっても不幸なことだと思う。小渕内閣時の教育改革国民会議では、プロ教師の会の河上亮一氏が入っていた。今その任に最適なのは、諏訪哲二氏なのではないかとオイラは思うのだが。


 「プロ教師の会」代表の諏訪哲二は、埼玉県で高校の教員を40年勤めた正真正銘の教師。現場のダイナミズムを踏まえたうえでの教育状況を分析した何冊もの著書は、学校のリアルを反映したもので、説得力があり、とても「腑におちる」。オイラは20年来のファンです。



 最新刊「いじめ論の大罪」では、いじめが起きるたびに狂騒するメディアやジャーナリズムの「不毛さ」をリアルに掘り下げる。いじめについて、マスコミの論じ方や認識は、20年前とまったく変わらないと諏訪は言う。まったくそのとおりだと思う。今も昔も、マスコミは学校をどういうものか把握していない。


 「一番問題なのは、現実の教師たちを馬鹿にしているのと逆比例して、本来のあるべき教師の姿を絶対的と言えるほど高いレベルに想定している・・・・・・そのパーフェクトな教師になりかわってしゃべっている。彼らに教師と生徒の現実のあり方がこうなってきたとコメントすると、「それは先生がダメだからじゃありませんか。ちゃんと生徒の一人ひとりをよく理解して、上から一方的に言うんじゃなく、同じ目線で話をすれば通じるはずですよ」などとおっしゃる。本来の正しい学校ではトラブルが生じるはずがないと思っている。絵に描いたようなすばらしい教師がいる(べき)と思っている。自分ならできると思っている(7ページ)」


 現実にはパーフェクトな教師などいない。学校は聖域ではないし全能ではない。ふつうの人が、ふつうの人の努力で維持している空間である。もっとも見落とされがちなのはその点で、「かくあるべき」という理想論で話が進んでしまうと「学校は何をしているのだ」「教育がうまくいかないのは教師がだらしないからだ」といった話になってしまう。ふつう教師はこれに有効に反論できない。違和感を覚えながらも沈黙してしまう。だから教育に対する世間の理解は一向に深まらない。


 諏訪哲二の本は、こうした一方的な批判に教師が答えていく糸口を与えてくれる。現場のダイナミズムにもとづいたリアルな教育観と、教育を取り巻く社会を的確にとらえる認識のありようがすばらしい。誠実に重ねられたであろう思考の結果、綴られた文章には、いつものことであるが、とても触発され、刺激される。


 後半、第3部の「主要ないじめ論を検証する」は一読の価値あり。尾木ママ宮台真司内藤朝雄、山脇由貴子、土井隆義の「いじめ論」を俎上にあげ、学校現場の視点から批判的に検証している。「尾木さんはいじめ被害者の側に100パーセント立っている(つもりでいる)。自ら正義の側に立っていると思いすぎるのは危険である」「<ダメなものはダメ>市民社会的尊厳観を広めてきた宮台さん、それをあなたが言いますか?」「内藤氏の言う「暴力を完全に司直の手に委ねる学校の法化」は、リベラリスムの最先端を行くと自称する学者の提言とは思えない」等々。それが世間から学校がさらされている無理解な批判に対する諏訪流の回答にもなっている。


 これに対し、これまで政府の「審議会」に呼ばれてきた教師は、ヤンキー先生だったりジャージ校長だったり、マスコミでも有名なカリスマ的教師たち。「現場のリアル」は会議の場でどこまで深められ語られるのだろうか。