苅谷剛彦/増田ユリヤ「欲ばり過ぎるニッポンの教育」講談社現代新書


欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)


 構成は対談形式。ライブは面白い。増田ユリヤ氏は、海外の教育を豊富に取材したジャーナリスト。苅谷剛彦氏は、現代の教育と教育改革をマクロ的に批判する研究者。最初かみあわないところから対談がスタートしながら、「とことん話せば、増田さんには、なんとか僕の考えをわかってもらえるんじゃないか(苅谷)」という誠実なアプローチが功を奏し、最後には共感しあっていく。そのプロセスが、知的で豊かであると感じた。


 とくに、日本の教育改革がうわすべりするメカニズムに対する苅谷剛彦氏の分析は一読に値する。「日本は、1970年代半ば以後、国家予算の伸び率に比べ、教育費総額はもとより、子ども一人あたりでみても、予算規模に比例するようには教育費を増やしてこなかった。その結果、今や先進国中でも、国家予算の伸び率に比べ、教育費総額はもとより、子ども一人あたりで見ても、国家予算やGDPを基準に見た教育費は、最低の部類に入る(241ページ/苅谷)」。一学級あたりの児童生徒数を見ても、OECDの平均と比べ、はるかに多い。


 「子ども一人ひとりの目をかけることを必要とする教育を求めておいて、そのための条件整備にはお金を出さない。時間的余裕も与えない。それでも、「自ら学び、考える力」の教育が大切だというのは、欲ばりすぎというほかない。加えて、小学校での英語教育、基礎学力に発展学習、「こころの教育」、「規範意識や情操」まで求める。・・・・これではまるで教育を魔法の杖と思っているかのようである。ニッポンの学校の身の丈(基本的な条件を含めた実力)を知ろうともせず、その改善を怠ったまま、要求のリストだけを増やしてきたとしか見えない(243ページ/苅谷)」


 「・・・過大な役割をこなせるだけの条件整備を怠ってきたのに、そのことには触れずに、教育の失敗が印象づけられる。期待が過大であることに目をつぶって、あるいは、身の丈に合った期待がどれだけのものかを議論せずに、期待に応えられない教育の現状を批判し続けてきた。改革に次ぐ改革を求める社会の声は、こうして作られてきたと見ることができるのである(248ページ/苅谷)。


  「教師が悪い」は、教育を取り巻く現実を見ないことの裏返し


 ここからは、本書を読んでオイラが考えたことである。「欲ばりすぎ」「学校を魔法の杖だと思っている」とは言い得て妙だ。過大な期待を担わされているのにもかかわらず、条件整備がおろそかにされ、にっちもさっちもいかなくなっている学校。その現状を、普通の人々は知らない。「うまくいって当然だろう」くらいに思われている。だから、学校の不祥事などをニュースで耳にすると、多くの人々は、制度など構造的な問題に目が行かずに、個別的な部分に原因を求めてしまう。「うまくいかないのは、その学校が悪いのだ」と。


 そうなると現場にいる教師のせいにするのが、もっとも受け入れられやすい説明となる。「教員の質が悪いから、うまくいかないのだ。「ひどい教師」を辞めさせて、全体の教員の質をあげれば学校は改善するに違いない」と。だから不毛な教員免許更新制は「悪くない」提案に映るし、日教組は日本の教育を悪くした張本人に映るのである。これは、現場で奮闘している教員からしたら、ズレていること甚だしい改善策でしかない。


 実はオイラがこの本を手にとったのは、退職金減額にともなう公務員の駆け込み退職者への「無責任」という批判がなぜ起こるのか、そのことをもう少し深く考えてみたいと思ったからだ。「退職者無責任論」を生み出すメカニズムは、教育改革が上すべりする理由と重なる。制度や条件整備に目を向けないまま、教育の現状を総合的に見ずに批判するから、観念的で一面的な教師批判になってしまうのである。


 教育は誰でも何となく語れてしまうから、ある意味始末が悪い。空想論なら何とでも言える。教育もリアリズムの世界に置いて論じないと、真実の姿は見えてこないと思う。