「私たち自身がメディアである」


 これは、1994年に起こった松本サリン事件のマスコミ報道検証番組を作った、松本美須々ヶ丘高校放送部の高校生の言葉である。


 松本サリン事件では、事件の第一通報者であった河野義行さんが、警察から一方的な取り調べを受け、その警察発表を踏まえた報道により、無実の河野義行さんがあたかも真犯人であるかのように扱われた。


 地元の高校生が報道被害の原因を明らかにしていくなかで、取材する側の自分たち自身もメディアであることに気づいていく、そのプロセスは、当時の放送部顧問だった林直哉先生によって「ニュースがまちがった日」という本にまとめられている。


ニュースがまちがった日―高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年

ニュースがまちがった日―高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年


 それからかなりの時間がたった。しかし日本のマスコミ報道の歪みは正されず、相変らず深刻な状況にある。そんな状況について高校生も関心を持つべきだ、そう思い、2009年11月には、松本サリン事件の河野義行さんに、オイラの勤務校に講演に来ていただいた。メディア・リテラシーを教育課題として取り上げたのである。


 以来「自分もメディアである」という思いが、オイラの心には常にある。オイラは教師であるし、ブログを書く。授業もメディア、ブログもメディアである。伝える立場にあるなら、きちんと伝えたいと思う。メディアかそうでないかは、発信の規模よりもむしろ、社会や他者と向かい合う基本的なスタンスの誠実さによって計られるのだとオイラは思う。「伝えようとする意志」の問題なのである。「広く伝わらないから」いい加減で済むわけはない。


 だからオイラは実名や立場が分かる範囲でブログを書く


 オイラは、きちんと伝えたいと思うから、実名や立場が分かる場所でブログを書く。それは三十年来のポリシー。高校当時、筒井康隆か誰かが書いていたエッセイに影響されたのだ。「実名で書いていない意見は読まれる資格がない」とかなんとか。こんなネット時代が来るとは思ってもみなかったが、オイラのポリシーは変わらない。


 昨日のエントリーでも触れたSIGHT51号でも、牧野洋はこう述べている。「メディア側も無署名記事のオンパレード、つまり匿名なんです。お互い匿名だから、官報複合体は責任回避型の強固なシステムになっています。匿名性に守られているため間違えても、システムとして批判されることはあっても、個々人は批判されない(82ページ)」


 それは教育の現場でも同じ。公立学校の教師は公務員なので、自分の意見を表明したり、名前が出ることを恐れる傾向が強い。オイラの勤務校では、校内伝達ですら、自分の名前を書かず、担当部署名のみで書く人が多い。自分の意志で動いて責任を取ることを、必要以上に恐れるという風潮がある。だがそれで高校生に十分に伝えられるのか? 当たり障りのないこと、一般論だけを伝えてよしとしているのではのか? オイラは、サラリーマン組織の一員である前に「考える個人」でありたい。人間としてのオイラの存在証明が「表現」という手段である。だから長文のブログを書く。


SIGHT (サイト) 2012年 04月号 [雑誌]

SIGHT (サイト) 2012年 04月号 [雑誌]


 関連エントリー 2011.4.10 内田樹「街場のメディア論」http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20110410