「サイゾー」2012年9月号を読んで


サイゾー 2012年 09月号 [雑誌]

サイゾー 2012年 09月号 [雑誌]


 「サイゾー」を手に取るきっかけは、雑誌「創」2012年9・10月合併号の「雑誌ジャーナリズムの現状を語る」という記事を読んだからだった。出版社や書店の廃業が相次ぎ、雑誌ジャーナリズムの弱体化の危機すら感じられる昨今、「創」の編集長である篠田博之氏が「週刊金曜日」「世界」「サイゾー」の編集部を訪ね、それぞれの雑誌がどういう方向で生き残りを模索しているのかを考えてみたいという意図で書かれた記事である。雑誌「創」自身が経営的にも厳しい状況におかれているだけに、切実な問題提起が伝わってくる力作インタビュウだと思う。


 そして紹介されていた「サイゾー」である。リニューアル後の「サイゾー」は、40代前半を中心読者に想定したビジネス雑誌になっていた。「創」によると、従来掲載されていた芸能ゴシップやアンチテレビのような情報は、主にウェブに移行し、本誌は、日経新聞週刊ダイヤモンド週刊東洋経済といった権威的なメディアに対するアンチとして、さらにディープな情報を載せていこうという方針でやっているとのことだった。なお、ウェブは広告収入で黒字だが、本誌単体では赤字だそうである。


 実際に雑誌を手に取る。9月号の特集は「焚書も覚悟!?なタブー破りの本」と銘打ったブックガイド特集。週刊ダイヤモンド週刊東洋経済のブックガイドとは全然違う。たとえば石原慎太郎辯天宗世界救世教霊友会の信者であることを暴露し、石原や新興宗教に対する理解を深めるための11冊をあげている記事(赤田達也)などは、企画の大胆さに心底びっくりだった。石原の「東日本大震災は天罰だ」という無神経な発言も、彼の信仰する霊友会世界救世教の観点からすれば、特に不思議でも何でもない、という指摘は、オイラにとっては目からウロコだった。


 LINEというアプリ


 また連載「佐々木俊尚のITインサイドレポート」第51回では、LINEというスマホなどで使われているアプリを取り上げている。NHN Japanによって開発されたこのアプリを使えば、パケット通信料が定額の場合、無料でインターネット電話やチャットを利用することができる。国内のユーザー数は1800万人、世界では2012年8月現在5000万人を突破。スマホの普及とともに、オイラの周囲でも使っている人がにわかに増えてきている。


 佐々木は直感的に操作できるLINEを高く評価する。LINEにはスマホっぽいところがない。IDやパスワードを設定したり、フェイスブックツイッターと連携させたりといった登録作業が必要ない。そもそもログインという概念すらないという。


 またLINEには、アイコンや顔文字をさらに大きくした画像を貼りつけて、相手にちょっとした感情を気軽に送信することのできる「スタンプ機能」というものがある。その画像は、ただかわいいだけではなく「怒っているウサギ」「困っているクマ」といった「キモカワ」と言われるようなものが多い。それだけでは第三者には何の感情を表しているのかわかりにくい。だがこれらは不特定多数に理解される必要はない。当事者同士のクローズドな人間関係を深めていくコミュニケーションツールなので、当事者同士で意味が共有され、ニュアンスが伝わりさえすればいいのだ。


「情報流通」機能と「つながり」機能


 インターネットには「情報流通」機能と「つながり」機能があるということを、佐々木氏のコラムを読み再確認した。ブログは情報流通のツール。フェイスブックツイッター、そしてLINEなどは「つながり」のためのツール。人は無意識のうちに、こうしたツールを使い分けている。


 オイラはブログに書いた記事をFACEBOOKに再掲載することがある。せっかく書いたものだから、できるだけ多くの人の目に止まるようにと思って再掲載しているのだが、意に反して多くの目に止まらずに消えていくことが多い。それはFACEBOOKが本来長文の「情報流通」記事を流通させる機能に適していないからだ。しかし逆に言えば「つながり」機能を持つFACEBOOKというツールを「情報流通」的な使い方ができないかという試行錯誤をオイラはしているつもりである。


 逆に「つながり」機能を「情報流通」機能に変換しようと考えている。オイラは高校で演劇部の顧問。いま勤務校の演劇部が11月の大会で上演する台本のブラッシュ・アップを試みている。演劇の言葉(台本)では、他者(観客)に見せることを前提なので、主に「情報流通」の言葉を使う。多くの人にわかりやすいように表現するのが一般的である。たとえば、観客が理解できない特殊な方言は、利用しない。高校生以外の人が見るのであれば、高校生にしか理解できない言葉は使わない。


 「つながり」の言葉に普遍性をもたせることができれば


 だがここに一本の台本がある。一昨年卒業した部員が現役時代に書いた「またあしたっ」という台本である。この台本は、今の高校生のコトバを元にした、独自のリズムの言葉が使われていて、それがリアリティと迫力を生んでいる。つまり「情報流通」の言葉で書かれず、高校生の「つながり」の言葉で書かれている希有な台本なのである。ただ問題は、クローズドな人間関係の言葉で書かれているために、第三者には、何のことかわからない部分もある。オイラは、高校生の「いま−ここ」でのコミュニケーション、つまり「つながり」の生々しいリアリティを損なわないように、第三者にも理解できる内容にすることができればと思い、11月の大会での上演を目指していま悪戦苦闘中でなのある。


 雑誌「サイゾー」もまた、ウェブ展開を模索したり表現のありようについて試行錯誤の見られる雑誌である。オイラもまた、ブログや教育の現場を通して、表現のありようについて試行錯誤する。むやみにこだわってしまうのは、自己表現することが、自分の存在意義と密接につながっているからだろう。表現は自分の底をのぞき込むようで奥が深い。


創 (つくる) 2012年 10月号 [雑誌]

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