SIGHT/2012年春号「総力特集 3.11から1年。この国ではなぜ誰も罰せられないのか」


SIGHT (サイト) 2012年 04月号 [雑誌]

SIGHT (サイト) 2012年 04月号 [雑誌]


 「リベラルに世界を読む」雑誌、SIGHTの特集は、4号連続で「原発を考える」。その中でも今回は原発事故の「責任」について、東海村村長の村上達也ほか、日隅一雄、保坂展人小出裕章、牧野洋、川崎友巳、藤原帰一のインタビュウ記事が掲載されている。「なぜ原発問題では誰も罰せられないのか」という問いは、原発はもちろん、日本社会の根本的な特質をついているのではないかと、オイラは直感的に思う。「責任」というのは研究対象になるんじゃないか。責任の取り方の歴史的変遷、とか、調べてみたら面白いかもしれない。それはともかくとして、原発問題の責任は追及されず、エネルギー政策の転換もなされる気配がないというのはなぜなのか、まずは継続的に考えていきたいと思う。


 そして内田樹高橋源一郎の連載対談、今回のテーマは「教育論」と「橋下徹」。今回も触発される。とくに昨日のエントリーの内容と重なるところがあって、オイラがとくに強く印象に残った箇所は133ページの内田の次の言葉である。


 「なんで世俗のイデオロギーから学校を守らなきゃいけないのかって言うと、世俗のイデオロギーって、「人間とは××である」っていうふうに、必ず固定するじゃない。「人間は邪悪で、卑劣な存在である」というのも「人間は清らかで崇高な存在である」というのもどちらも部分的な真理に過ぎないでしょう。イデオロギーっていうのは、そういう「言い切り」できる半真理のことだと思うのよ。でも、現実は「子供たちは悪魔であり、かつ天使である」わけじゃない。僕たちだって、高尚なところと俗悪なところ、勇敢なところと卑怯なところ、ひとりの人間のうちに抱え込んでいるでしょう。そのどちらかにまとめろって言われても無理だと。でも、こういう「Aでもあり、かつ非Aでもある」というようなややこしい人間観を維持するためには、どうしたって「温室」をつくって外気を遮断しなきゃいけないの。デリケートなのよ、すごく。どっちつかずで、極端な要素が同時に共存している状態の子供って、すごく傷つきやすいから。信じらんないような凡庸さや愚鈍さと、信じらんないような知的卓越性や芸術的な才能が、ひとりの子供の中に同時にあるわけで、本人も困ってるんだよ。子供としては「私は××である」と言い切りたいんだけれど、言い切れない。その言い切れなさというか、中途半端さというか、それが成長の手がかりなんだよね。それをばっさりどっちかに片付けるわけにはゆかない。だって、どちらかに片付いて、話が分かりやすい人間というのを「イデオロギッシュ」って呼ぶわけだから。イデオロギーの毒から教師は子供たちを守らなくちゃいけない。子供自身にきみは邪悪であり、かつ天使的であり、凡庸であり、かつ天才である」っていうふうに、二枚舌三枚舌を使わなきゃいけない」


 長い引用になってしまったが、要するに「人間は複雑で多面的である。多様である」ということ。いじめ問題にしろ人権問題にしろ、つきつめれば「人間は複雑だ」ということを理解する教育であるとオイラは思う。そうした教育というのは、日の丸君が代に敬意を払わない教員をそれだけで懲戒免職にしたり、職員会議における言論を封殺したりする教育方針とは対極にある。


 4月3日のエントリーでも取り上げた土肥信雄先生も次のように言う。「いろいろな生徒がいますから、いろいろな先生がいていいんだと思います」学校が多様であればあるほど、学ぶ者にジャストフィッティングする可能性は高まるのである。


それは、密告からはじまった―校長vs東京都教育委員会

それは、密告からはじまった―校長vs東京都教育委員会