佐々木俊尚「「当事者」の時代 」光文社新書


「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

 アマゾンのブックレビューでは冷淡な感想が多い。意外である。現在もメディアで生きる筆者の気合が行間から伺われ、巷にあふれる「書き飛ばし本」とは明らかに一線を画す。


 第1章は、筆者が新聞記者時代の体験をもとに、権力とメディアの関係を解き明かす。警察や検察などの権力と新聞記者との間には、オモテの〈記者会見共同体〉のウラ側に、隠された〈夜回り共同体〉が存在している。このような二重構造こそが、日本社会全体に浸透拡散した、関係性の構図そのものであると筆者はいう。こう要約してしまうと、無味乾燥な抽象論のように聞こえるが心配御無用。筆者の具体的な経験談が豊富なので、なぜメディアが権力側に依存するようになるのか、これほどわかりやすく、具体性にあふれた内容をオイラは知らない。


 第2章以降は、「市民」とメディアのねじくれた関係を明らかにする。マスメディアは、弱者の視点に立ち「今の政治はダメだ」「自民党一党独裁を打破すべし」という。「市民感覚」を大切なものとして取り扱う。だが、マスコミは、市民運動を積極的に担っている人々を取り上げるのは、反権力の意見を代弁してくれるためであり、てっとり早く中立報道の立ち位置から記事を作るためである。紙面では「与野党激突」や「市民感覚」「市民目線」という文字が踊っても、「弱者」や「市民運動」が世の中を動かせるわけがないことは、マスコミ関係者もよく知っている。


 第3章以降は、〈マイノリティ憑依〉がテーマとなる。〈マイノリティ憑依〉とは、より被害者に近い立場、弱者に近い立ち位置を取ることによって、絶対的な批判者の立場を取ろうとする風潮。筆者によると、60年代前半までは、日本人の多くは「軍部の暴走によって戦争に巻き込まれた」被害者という意識が強かった。ところが60年代後半から、小田実本田勝一らの先導によって、日本人は、アジアの人々に対して加害者だったのではないかという意見がが語られるようになった。そして完全なパラダイムシフトが起こったのが1970年の「7.7告発」だと佐々木はいう。


 「7.7告発」は、聞きなれない出来事かも知れない。1970年7月7日、学生運動のシーンにおいて、在日中国人青年から、在日人民やアジアの人々の苦悩を共有しえていない現実を告発されたという出来事である。「メッセージが7.7の集会で読み上げられると、日比谷野音に集まっていた各セクトは言葉を失い、ただひたすら狼狽するだけだったという(270ページ)」その後、各セクトはいっせいに自己批判した。その後、市民運動では、マイノリティの目線が取り戻され、差別反対運動や市民運動反戦平和運動環境保護運動など、非政府的な市民の活動は、これらの一連の運動の延長線上に展開されることになった。


 「7・7告発」そのものは、マイノリティの視線を取り戻す画期的な出来事だったが、成果とは逆に、「マイノリティ憑依」という新たな問題が生じた、と筆者は言う。マイノリティ(被害者)に同化することで、周囲のすべてを「加害者」という立場に押しやり、自らを正当化できる。自らが断罪されなくて済む。自分が加害者かもしれないという自己点検もおろそかでよい。言わば気楽な状態である。だから、マスメディアをはじめ、社会運動に関係する人々が「マイノリティ憑依」の立場を取るようになったのである。


 マイノリティ憑依では、いつまでたっても、日本社会に生きているリアルな人々に寄り添うことはできない。筆者は、こうしたマイノリティ憑依を克服する手段として、当事者としての意識を持つことを提示して本書は終わる。


 こうして要約を書いてみると、抽象的な内容のように思えるが、本書はさまざまな事件や意見を例にあげ、具体的で読みやすい。おかげで新書としては大部になったが、内容は充実している。1960年代から現在につづく思想的な潮流を追っており、とくに団塊の世代以降、反差別運動や市民運動に関わったことのある者なら、我が事として本書を読み進めることができるのではないか、とオイラは思った。


 またマスメディア関係者や市民運動関係者以外でも、ネット時代を生きる我々にとっては、どう当事者性を担保しておくかということは、とても大切なことだとオイラは思う。ネット空間には、匿名の、ふわふわした意見がとびかっている。オイラが実名でブログを発信しているのは、当事者性を押し出さないと、腰の座った意見にならないからだ。いわば責任を引き受けるオイラなりの覚悟である。


 30年近く人権問題に関わってきた教師として、「当事者」としての自分自身のことについて、いずれ書きたい。