第26回高知県高等学校演劇祭その2


第26回高知県高等学校演劇祭 その1
第26回高知県高等学校演劇祭 その3
第26回高知県高等学校演劇祭 その4
第26回高知県高等学校演劇祭 その5
第26回高知県高等学校演劇祭 その6
第26回高知県高等学校演劇祭 その7
第26回高知県高等学校演劇祭 その8


3 高知小津高「白昼夢」作/谷相奈瑠美


 どことも知れない部屋に3人の人々。ひとりは必ず眠っていて、眠った人を起こすと、今度は起こした人が眠ってしまう。だから3人揃って話をすることができない…。非常に独創的な設定。そうした設定を思いついける発想力をまずは高く買いたい。


 夢は現実を映す鏡である。フロイトは、文明によって抑圧された人間の無意識が、夢の中に思ってもみないような形で現れるということを研究し発表した。この作品は、そうした夢の効果を巧みに使って語られている。夢のなかの砂時計、コンクリートが見えないくらいのたくさんの人たち、自分を殺す…。一見何の脈絡もない3人の夢が、登場人物の無意識の心の抑圧の暗喩として、批評的に立ち上がっているのである。それは、現実社会の問題を間接的に問いかける視点にもなる。


 台本について。この作者は、説明を意識的に避けた書き方をしている。説明しないようにドラマを進めるにはどうしたらいいのだろうかと格闘したあとが見える。むしろ説明不足なくらいである。舞台設定なども、あいまいに書かれている。説明されないから、それが観客の創造力を刺激し、観客自身の解釈を生むのである。


 説明もうまくやれればいい。だが多くの高校生の役者は、セリフで聞かせるほどの表現力が発展途上なので、未熟な説明になる場合が多い。むしろ説明しないことで、観客は勝手に解釈してくれる方が効率的である。観客の解釈をテコにして作品づくりをした方が、作り手の意図は観客に伝わりやすい。書き手は、自分の作品が、説明になっていないか、たえず点検すること。今大会でも全編説明に終始している本がいくつかあった。どうしても書きすぎてしまう人が多い中、谷相奈瑠美さんは計算がよく行き届いていると思う。


 演技について。ふるまい方に独特の美学がある。こてっと寝たりするちょっとした動きが面白い。身体がよく意識されているのが分かる。セリフは軽く、とぼけた味があり聞きやすい。力むとセリフは聞かせるのが難しくなる。また、トランプを長い時間をかけてかけてやったり、タワーを作ったりする描写もうまい。一見意味のない、くだらないことを延々と続けるのは、演劇を立ち上げる上において有効である。ただし、夢の場面をはじめ、もっとイメージを乗せてセリフを語ること。今のままでは、セリフが十分に生きているとは言い難い。


 美術について。少し空間が広すぎる。高知小津高に限らず、ほとんどの学校が引割幕を少しセメて、舞台空間を小さくして使うということをしていなかった。とくにこの芝居には、小さい空間が似合っていると思う。また、余裕があるなら、舞台床面にリノリウムなどを敷こう。白っぽい舞台が理想。木目は趣を削ぐ。
 椅子は自作した方がよかった 学校の特別教室のように見える。また、椅子は下手に置かれたが、舞台全体のバランスを考えて、もう少し個数も多く配置した方が、舞台としては美しく、安定して見られると思う。また、椅子を並び替えていくという投げかけは、少し中途半端で意図がわかりにくい。


 解釈しすぎだと思うが、ラストはイギリスの古代遺跡ストーンヘンジに見たてようとしていたのかなあと思った。ストーンヘンジは、巨石を環状に並べた遺跡で、死者を祭る場所であり再生の場所。この部屋から去ることが再生であり、「生きる」ということにつながるのかなと勝手に解釈してみた。変に解釈したくなるのも、説明を極力省くという高知小津高の作戦が効果的に決まっている証かも知れない。





2 高知南高/大原弓果作「籠目」


 民謡「かごめかごめ」は輪廻転生をうながしているという歌詞の解釈からイメージを広げた意欲作。輪廻転生を信じる人々の住む村で、不老不死を望む男を、鬼女が鬼の世界へと連れ去っていく。


 台本は、伝奇ロマンといった趣の、深い世界を持っていて、面白い内容だと思う。美術も幻想的な雰囲気を作り出そうとよく努力している。複数の赤い提灯のなかに明かりを仕込み、照明を落したときに光らせるという凝ったしかけなど、作品作りの本気を感じさせる。ただ、どこかで見たイメージの再生産という感じも強い。


 また、この作品は時代設定をはっきりと言わない。いつ頃の話なのかと思う。女生徒がモンペをはいているのは、太平洋戦争を連想させるが、セリフで「伸び上がってゆく我が国をその眼で見てきた」といった高度経済成長っぽいセリフもある。それに、女の子たちはモダンな雰囲気。「鬼の出る」「夜は外出できない」「生まれ変わりを信じている」という特殊な村のイメージはない。


 そして一番大きな問題は、説明的な台本になっていることである。セリフで状況が語られ、セリフでストーリーが語られる。状況は、セリフで直接言ってはならない。言えば説明になる。
 たとえば台本にある「神社の掃除なんてやだー」「仕方ないでしょ、先生に言われたんだから」というのは、セリフによる状況説明そのもの。鳥居と社を舞台に用意して、役者が無言で掃き掃除をする途中で、つまらないという気持ちを作ってため息をつけば、観客は、ああ、あの子は神社の掃除をつまらなそうに思ってるなと理解できる。セリフで言うのではなく、言わないで観客に推察させることが大切。セリフとともに、役者がどんな動作をするのかを具体的にイメージしながら書こう。


 生や死を語る観念的なセリフが多いのも気になる。またストーリーが多いと、演劇は立ち上がらない。物語は最小限にする、これが演劇を立ちあげる鉄則。