風立ちぬ



 合点がいった。「風立ちぬ」をはじめ、最近の宮崎駿の作品に強く漂う「死のイメージ」についてである。9月1日夜に報道された宮崎駿の長編アニメ映画製作からの引退宣言を聞きながら、宮崎駿は、作品をつくることで、死に方を模索していたのだということをオイラは確信した。


 宮崎駿の最近の作品は、作家性が強く、どこか観念的で生硬で、イデオロギーが先に立ち、作品全体に「痩せた感じ」の雰囲気が漂ってきた。おそらくそれは、彼が年を取ったせいだ。齢を減ると、表現者のその本質的な特徴が、作品により露わに表れることがある。物事を真面目につきつめて考える彼の性向が作品に反映されることを、最近の宮崎駿は、隠そうとはしない。


 とくに「〜しない」という宮崎駿の意思が、作品から強く伝わってくる。「風立ちぬ」では、「戦争」や「飛ぶこと」「メカへのフェティシズム」など、映画的エクスタシーを感じさせる題材を扱っているにもかかわらず、観客を高揚させない。「飛行機」に関しては、模型雑誌の連載時とはうって変わって、描きこまれない。背景などは、とても詳細で絵画的に描かれているのに対し、出てくる飛行機は、線で構成され、どこかのっぺりとして、まるで紙飛行機を連想させる描き方である。


 アニメ表現は、記号化という宿命から逃れられない。とくに戦闘描写においては、人を高揚させる表現ばかりが求められ、その結果、一部の例外を除いて、アニメ映画は、戦争の多面性や複雑さ、悲惨さや非人間性を描いてこなかった。宮崎駿は、戦争を肯定するアニメという形式を「風立ちぬ」によって宮崎駿は否定して見せた。単純化されたヒロイズムをはじめとする、無邪気な男性性をストイックに封印することによって、従来のアニメ表現とは一線を画そうとしたのである。


 観客に関しては、わかりやすく作らない。俗情と結託しない、徹底して突き放した作りである。「わからない観客にはわからなくていい」というスタンスが見える。序盤で描かれる地震は、歴史を扱った作品ならば、普通は「1923年 関東大震災」と、テロップが出るところである。さらに、堀越二郎を描きながら、太平洋戦争はまったく描かれず、ゼロ戦の卓越した性能に関する描写もない。それどころかゼロ戦そのものが1カットしか描かれない。菜穂子の死も直接には描かれないから、理解しおくれた観客は、菜穂子が死んだことさえ気がつかないかも知れない。こうした観客に対する不親切さが、オイラの中では「痩せた感じ」という印象につながる(つづく)。


 関連エントリ
■[映画]「風立ちぬ」その2
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130902/1378241580
■[映画]「風立ちぬ」その3
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130903/1378244132