「風立ちぬ」その2



 (9月1日からのつづき)「風立ちぬ」の内容は、以下のようなものである。「夢の代償は大きい。理想の飛行機を作ることが、大量殺戮に手を貸す結果となった。人間は矛盾した存在である。(宮崎駿自身も「反戦」「護憲」を語るが「軍事オタク」でもある)そうした宮崎駿のありようを主人公に投影させた作品が「風立ちぬ」である」そうした宮崎駿の意図と表現は、オイラはそれなりに理解できる。


 問題は「恋愛」描写にあるように思う。「風立ちぬ」の恋愛は、いまどき珍しいほどまっすぐな純愛で、見ていてこちらが気恥ずかしくなるほど。その人間描写に宮崎駿の嗜好や彼自身の姿が投影され、正直、オイラは感情移入がしにくかった。


 たとえば「二郎」について。本作では、女性に対してどう接してきたかという履歴がほとんど描かれない。近代文学では、女性について読み解くキーとして、母親や乳母とのかかわりの記述があったりする。だが本作では、少年期が描かれているにもかかわらず、母親の描写がほんの少ししかない。その代わり、彼に積極的にかかわろうとするのは「妹」。妹は兄を慕い母のように二郎に世話を焼く。妹コンプレックス(宮崎)からすれば、ある意味都合のいい存在である。そして、この妹には美貌がない。だから恋愛対象が、妹的な菜穂子になる。そういえば菜穂子も妹的である。だとしたら、二郎は性的には成熟していない、そんなふうにオイラには読める。


 加えて、描かれている恋愛は、どうみても「きれいごと」である。菜穂子はモダンで、上流。当時は主婦労働が過酷な時代であり、おまけに子どもをたくさん生まなければならなかったから、生活を考えると、嫁としては、腰の大きな、豊満で肉づきのよい女性が一般には好まれた。「風立ちぬ」には、何人もの女性が働いているそばを菜穂子が通るという一場面がある。病弱な菜穂子が、間借りした黒川宅を出たのは、二郎に迷惑をかけられないということに加えて、働く女性たちを前にして、肩身が狭かったからではないか。そんなふうに勝手にオイラは解釈したのだった。


 日頃から「反戦」「護憲」といった左翼的スタンスを明らかにし、一方で「軍事マニア」であることの葛藤を、自覚的に描こうとしている宮崎駿が、よりによって「薄幸なブルジョワ娘との恋」に対しては、ほとんど葛藤なしに「上流階級の」「きれいごと」として描いてしまっているのかが、オイラには違和感なのである。


 おそらくその答えは「宮崎駿がそう描きたかったから」ということに尽きるのだろう。宮崎駿は商業的にも大成功をなしとげた映画作家であるから、自分の思い通りの作品を作ることができる。その結果、「風立ちぬ」は、彼の高いレベルの観念的な思索と、ある種欲求に根ざした彼の無意識的な嗜好がごっちゃになった作品となった。観客としてはそれも含めて、宮崎駿の作品を味わえればいいのだが、オイラには老境に達した映画作家の「脇の甘さ」に思える。そう言えば、黒澤明も「まあだだよ」という自己満足的色彩の強い作品が遺作になった(つづく)。


関連エントリ
■[映画]「風立ちぬ」その1
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130901/1378156313
■[映画]「風立ちぬ」その3
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20130903/1378244132