岡留安則「『噂の真相』25年戦記」




「噂の真相」25年戦記 (集英社新書)


 2004年3月に休刊した雑誌「噂の真相」の編集長、岡留安則氏が、「噂の真相」の25年を振り返った渾身の回顧録

 いや、回顧録という括りは適切でないかも知れない。この書は時系列に沿った編年体で書かれていない。全体が6章に分かれ、それぞれ異なった視点からさまざまな事件を取り上げ、「メディアの表現規制とそれを取り巻く状況」「日本の権力構造とマスコミとの関係」など、岡留氏のマスコミや社会に対する持論が浮かび上がってくるようなつくりになっている。本書にあるのは、25年の経験に裏打ちされた、彼の実践的ジャーナリズム論であり、時代状況を映す鏡でもあるのだ。


 「噂の真相」は「反権力・反権威」を編集方針としてきたが、本書を一読して、25年の間、そのスタンスに大きなブレがないことに、改めて感嘆する。「私人は取り上げない」「大企業からの広告は受け取らない(結果的にそうなってしまったらしいが)」「ジャーナリズム常に相互批判の対象であるべき」そして「間違いを認めるに潔しとする」等々のスタンスを堅持した姿勢は、真にアッパレというべきであろう。


 個人的なことだが、僕は「噂の真相」の熱心な読者だった。したがって、取り上げられているさまざな事件の多くになじみがあり、興味深く本書を読了することができた。「噂の真相」が休刊してから1年近くがたつが、「噂の真相」に代わる雑誌は現れていないように思うし、「噂の真相」が果たしてきたある種の社会的役割を補完しきっている雑誌もないように思う。「噂の真相」のあとに「噂の真相」なし。それはある意味残念なことではあるが、「噂の真相」がそれだけ希有な存在だったということだろう。

 

岡留氏の断筆宣言


 「噂の真相」がなぜ休刊に至ったのか。岡留は、次のように書いている。


 ・・・・・・問題は政権党に上手く取り入って、政治家にも自分たちにも都合のいい法律を起案する官僚たちの狡猾さの方ではないか。というのも、自民党は相次ぐ週刊誌のスキャンダル報道によって、そのたびに政局が揺れる不安定状態を何とかしなくてはならないという長年の懸念を抱えてきた。それが、国民総背番号制といわれる住基ネットの施行により、個人情報を保護しなければならない、という大義名分を千載一遇のチャンスとばかり巧妙に利用しただけの話である。政治家も官僚も、一般国民同様に等しく個人情報は守られなくてはならないというのは一見正しい言い分に聞こえる。しかし、公人は個人のプライバシーが制限されてしかるべきで、国民の税金で禄を食む公益にかかわる業務に当たる公僕であることを忘れてはならない。

 現行の名誉棄損判決においてすら、こうした公的目的、公益性がある政治家にはプライバシーに踏み込んだ報道をされてもやむを得ないというのが確定した判例なのだ。個人情報保護法が、そうした憲法解釈すらも超越して、政治家や官僚に特権的保護を与えていることこそが大問題なのである。最近の社会保険庁のズサン極まりない実態や。日歯連橋本龍太郎に対する1億円政治献金などの報道も、05年4月からの個人情報保護法の施行によって、週刊誌のスキャンダル報道は大幅に規制され、骨抜きにされる可能性がある。少なくとも、「噂の真相」のような雑誌は存在すらできなくなる。戦前の治安維持法に匹敵する事前検閲と刑罰の発動が可能になる法律なのである。そして、この個人情報保護法成立により、政治家スキャンダルまでが法的規制の対象になるだろうと判断したことが、「噂の真相」休刊を決定づけた要因であった。・・・・・・・(本書240〜241ページから引用)


 暗黒の時代はそこまで迫っている。この文章は、岡留安則氏の断筆宣言であり、マスコミや全国民にあてた檄文に聞こえるのは僕だけだろうか。そういえば、作家の筒井康隆氏が断筆宣言をおこなったのも、「噂の真相」93年10月号だった。


それぞれの場所でどう戦うか


 最後に、自分のことを少し書いておく。岡留氏のメッセージは、主としてマスコミに向けて書かれているが、氏が憂慮する社会の変化は自分を取り巻く状況の変化にもあらわれてきている。

 僕は、公立学校の教師という職業で禄を食んでいる。学校が社会のよきモデルであるべきだという考え方にたつと、学校は本来民主的であるべき場所だと思う。しかるに現実は、従来の文部(科学)省を頂点とする集権的な教育行政に加え、学校長の権限強化により、教員の裁量権は大きく奪われている。結果として学校は官僚制機構に組み込まれ、硬直化した組織が効果的は協業を阻んでいる。週5日制は多忙に拍車をかけ、個人情報保護法に先立ち本県では2003年1月から施行されている「個人情報保護条例」によって、自由な言論と健全な批判は生まれる気配もない。


 今の場所で自分が何をしていかなければならないかを僕は考えたい。それが、本書に「戦記」とタイトルをつけた岡留氏の志をくみ取るということであろう。