「阿修羅城の瞳」その2



 

フレームの外側の世界が見たい!


 (昨日(5/1の記事のつづきです。まだの方はこちらを先にお読みくださいhttp://d.hatena.ne.jp/furuta2001/20050501


 この映画が「演劇的」なたたずまいを漂わせているのは、カメラワークやモンタージュにも理由があると思う。

 最近流行のアップを多用した演出や躍動感のある編集はおこなわず、手堅くフィクスで撮影されている場面が多い。モンタージュも常識的だ(CGを多用するための制約があったのかも知れないが)。また、スタジオ撮影や時代劇特有の制約(映してはならないものが多い)などのせいもあると思うのだが、ロングショットの割合が少ない。「また結界の橋」前のセットの使い回しがやたらと多く、よく似たショットで撮るために、演劇で言う「プロセニアム(舞台の額縁)」がそこに存在するかのように思えてくる。


 よく似た絵を芝居のように見せられることには正直ストレスがたまる。なぜなら、演劇では「プロセニアムの中こそが全世界」ということを観客が了解しているのに対し、映画では、そのフレームの外側に世界があることを周知の事実として見ているからだ。カメラが他の場所を映さないのは、主として作り手側の事情であることをみんな知っているからだ。この世界をもっと知りたい。僕はフレームの外側が見たい。(向こうの水平線をぐるっとパンしてみろ。「結界の橋」も、同じ方向からのショットばかりじゃないか)僕は思う。しかし、カメラは決してそこへ向けられることはない。


カットが変わらなくても、優れた舞台が観客を飽きさせない理由


 演劇的にしたいのなら、「旅芸人の記録」のテオ・アンゲロプロスのように、1シーン1カットという手もある。「めぐりあう時間たち」の駅のプラットフォームのシーンも、同様にとても演劇的だった。ストイックに演劇的な方法論を取り入れれば、むしろ演劇的な魅力もたちあがってくるかもしれない。また、たとえカメラが限られた場所から出なかったとしても、アップなどを印象的に使い、観客の視点を細部に誘い、飽きさせないという方法もあるだろう。

 ちなみに、舞台はカットが変わらない。それなのに優れた舞台は観客を飽きさせない。なぜか。それは観客がどこをみるかの自由度が、舞台の方が高いからだと思っている。映画では、作り手の見せたいものをカメラが誘導し観客はそれを見る。芝居では、演出上の誘導はあるにしろ、どこを見ようと何を見ようと観客の自由である。目のつけどころが違うと、自由に解釈をする余地が残されている。

 僕は舞台のテレビ中継などでも、下手なカット割をされると、気になって仕方がない。


観念的なセリフと実体のない恐怖


 また、観念的なセリフが多いのもこの映画の特徴である。ドラマ展開がセリフに大きく依存している。演劇ならセリフが多さも、ある程度は仕方あるまい。しかし、映画ならば、まず絵で見せていくことが必要だろう。「突き立ててえんだよ、お前の中に。俺の情のありったけをな」とか「おまえの血、おいしゅうございました」といったセリフは、やはり舞台のセリフだろう。舞台では多義的なセリフとして魅力的なのだろうが、映画で見ると嘘臭さが目立つ。ラストの格闘シーンが情交の隠喩であることを説明するにすぎないセリフになっている。


 この映画では「鬼」の実体がほとんど描かれていない。だから、鬼の世がどんなに恐ろしいのか観客は実感がつかめない。鬼の怖さが描かれないから、鬼の頭領である美惨の怪しさや、鬼の王である阿修羅のまがまがしさが伝わってこない。鬼になったり、鬼の王の出現を待ち望むことは、もっと背徳的なものであるべきだ。

 阿修羅城も同様である。現世は地獄になる、というが、江戸の街に火山弾のようなものが降ってきて、江戸の人たちが逃げたあと、江戸の街が炎上しているシーンが描かれているが、地獄の具体的な描写としては、甚だ説得力に欠ける。江戸の街の炎上も、阿修羅城のヴィジュアルも、まるで芝居の書き割りのようだ。もっと実体の伴った描写にしないと、せっかくの設定が生きてこないと思う。


深みと多面性を感じさせて熱演の宮沢りえ


 ヒロイン役「つばき」を演じた宮沢りえは、恋の感情の深みと女性の多面性を感じさせて熱演。彼女は、魂の高ぶりを触媒にして、「エイリアン」のごとく、子供→娘→鬼と転生するが「シャイニング」のように、別の人格に切り替わるのではない。娘の部分と鬼の部分を合わせ持ち、また好きな男を慕う部分と恨む部分を合わせ持つという非常に複雑な設定である。惜しむらくは、もう少し時間をかけて場面場面の心理的なつながりを意識しつつ台本を整理するべきではなかったかとは思う。

 存在感という意味では、染五郎の存在感に負けないように、彼女のような女優が必要だったのだとは思うが、もしこうした「演劇的な映画」という手法を取らないのであれば、もっと若い女優の方がよかったと思う。江戸時代の娘としては、ヴィジュアル的に少々ツライものがあったのも確か(舞台ならごまかしが効くのだが)。

 また、ラストの宮沢りえの格闘シーンは痛々しい。もう少し動ける人をキャスティングするか、ああいう終わり方にしない方がよかったのでは。


 マイナスのことばかり書き連ねてきたが、部分的には見所も多い。タイトルロールの音楽がイカス。ちょんまげを結っていない、フィクショナルな時代劇(劇団☆新幹線のいつもの手といえばそれまでだが)。文化文政期の江戸のセットがエスニック風で面白かった。そういったずらしは、とてもセンスがいい。

 また、「殺して殺して早く早く」というセリフは色っぽかった。時間の関係で詳しくコメントできないが、破壊衝動を原動力に転生するヒロインというのは、とても面白いと思う。


阿修羅城の瞳@映画生活