「阿修羅城の瞳」




舞台のたたずまいを写しとろうと企図した「映画」


 原作は関西出身の人気劇団「劇団☆新幹線」の代表的戯曲。時は文化文政、「鬼」と「鬼殺し」の抗争の最中、数奇な運命に翻弄される男と女の恋物語。舞台版と同様、主演は市川染五郎。他に宮沢りえ樋口可南子渡辺篤郎、小日向文世。監督滝田洋二郎


 「映画の持っているリアルなものと、舞台的なものの中間の、何か変な感じを出したいってずっと思いながら撮っていましたね」(柳島克巳/撮影)(※1)

 「舞台とは違った生の迫力とその高揚感を、うまく映画に結び付けていきたいと思っています」(滝田洋二郎/監督)(※2)

 舞台には舞台の魅力がある。滝田曰く、原作舞台は「生の迫力」と「高揚感」に満ちている。映像化を図るにあたって、そうした魅力を取り払ってしまうのではなく、その良さを損なわずにスクリーンに写し取ろうと企図された作品なのだろう。この映画からは、たっぷりと舞台のたたずまいを感じることができる。 

 ただ、映画と芝居は違う。問題は方法論だ。映画として生まれ変わった以上、本作はあくまで映画であるから、映画的表現として成立していることが肝要だ。この作品は「映画として」成功しているのだろうか。「映画」と「芝居」の違いについて「役者と観客の関係」という面から考え整理し、本作品を見ていくことにする。


「映画」と「舞台」はどんなところが違うのだろうか。


 まず「演劇」から。舞台上の出来事を観客に伝えてはじめて演劇は成立する。劇場にもよるが、役者と観客の間にはかなりの距離がある。舞台上の役者は等身大でしかありえないから、観客席後方まで伝えるためには、舞台特有の演技の方法論が必要になる。舞台俳優独特の発声法やメリハリのつけかた、大仰なセリフも、観客に伝えることを目的として編み出された方法に他ならない。

 これに対して、映画はアップやモンタージュが可能である。ぼそぼそしゃべっても、場合によっては喋らなくても役者の思いを観客に届けることができる。大仰に喋る必要はないし、会話は日常会話の延長でいい。

 

 「阿修羅城の瞳」の役者は、かなり舞台的な演技をする。とくに主演の市川染五郎は(歌舞伎役者という無理の少ない設定になってはいるが)映画の中で見栄を切ったりする。リアリティという意味からは問題があるが、染五郎の「役者」の魅力と存在感は濃厚に伝わってくる。ほとんど全編染五郎のための映画と言っても過言ではない。歌舞伎のシーンをたっぷりと盛り込み、色っぽい場面からアクション場面まで、見せ場が次々に用意されている。にやけた色男っぷり/カブキ者っぷりと、メリハリの効いた殺陣はなかなかの見物。舞台の空気を大切にしたことは、染五郎を十二分に生かすという面で生きている。


 そしてこの映画では、殺陣もまた様式的だ。あくまで「舞台の殺陣」である。この映画の殺陣そのものの出来が悪いわけではないが(ただしラストの宮沢りえ染五郎の一騎打ちを除く)、序盤、鬼御門が鬼を退治する江戸の夜の街のシーンでは、鬼御門がニヤリと笑い、いかにも「楽しんでいます」という表情で鬼を斬り殺すので、観客は「ああここの場面では鬼御門が死ぬことはないのだな」と了解してしまい、勝ち負けの緊張感は薄らぐ。

 大仰な演技にしろ様式的な殺陣にしろ、映画的なリアルな表現にしようと思えばできるところを、この映画は拒否しているようなところがある。それがこの映画の方法論と言えばそう言えないこともないが、「映画として」物足りなく思う部分でもある。


ウソが許される「芝居」と許されない「映画」


 映画と芝居は違う。「芝居」では役者が目の前にいて、プロの圧倒的存在感を観客は感じとることができる。しかし、観客は目の前の出来事がリアルの延長線にあるとは思っていない。言わば芝居は非日常的な空間であり、そのことを了解したうえで観客は舞台と向かい合っているのである。よって観客は舞台のある種の嘘を許容する。役者の存在感(含ウソ)にも比較的すんなりと入り込むことができるのである。


 これに対し、「映像」はどうか。映像は「真実を写し取る」。そのことを前提に観客はスクリーンと対峙している。

 映画の中の「花」が「造花」であれば「おかしい」と思う。しかし、舞台では、舞台上の物すべてがウソであることは前提なので、花が「造花」であっても許容される。

 効果や背景についても同様だ。舞台の上のものが書き割りであっても、観客は「本物であるわけがない」と思っているので、本物かどうかは問題とされない。演劇では、劇団四季のちょっとしたスペクタクル・シーンでも見せ場になる。しかし、映画では本物であることが前提なので、結果、CGの瑕疵にさえ観客はブーたれるのである。


 映画の観客は、リアルでないものに対して敏感、冷静で批判的だ。映画を観るとき、観客は、現実と連関する回路を開けているのだ。

 したがって、普通、映画の演技は、リアリティを重視する演技になる。演じすぎは「臭くなる」ので禁物だ。健さんや小百合姐さんの演技をみよ。セリフも少なく、映像で見せるのが映画の基本だ。

 「阿修羅城の瞳」は、そうした方法論からは、少々離れたところに屹立している。確かに、染五郎の魅力は濃厚であるが、演劇的な絵作りを施しているがゆえに、スクリーンで見たとき、魅力を逆に削いでいる箇所も多いのが残念である。

     (この項つづく)


阿修羅城の瞳@映画生活