「ザ・インタープリター」その2
(結末ほか内容に深く言及しています。また本記事は昨日のつづきです。まだお読みでない方は、5/31付記事を先にお読みくださいhttp://d.hatena.ne.jp/furuta2001/20050531/p1)
主体的にドラマを解読しようとする観客を生む「演出」
(つづき)昨日の記事で、「ささやき」を強調することで「観客に聞こうとさせる」演出がうまい、と書いた。それに関連した内容から始めたい。
この映画は、ドラマのカギになるポイントを「観客に発見させる」。それが知的な印象を観客に与えている。派手なしかけはなくとも、観客の関心をドラマのカギにふりむける演出がうまい。具体的に2カ所あげてみよう。
一カ所目は序盤、シルヴィアのことを調べるケラーの元に、昔の「興味深い」写真が送られてくるシーン。写真はマトボ共和国の反政府集会を撮ったもの。写真の送り主はケラーに「よく見ろ」と電話の向こうから言う。カメラは写真にほんの少しズームして、その場面は終わる。
その写真には、シルヴィアが偶然写っている。彼女が「昔アフリカで反政府運動に参加していた」という大事なポイントを、ケラーが知る場面である。普通なら、シーンの終わりで、カメラは写真の中の彼女をアップにして、次の場面につなぐ。しかし、この映画では「よく見ろ」というセリフのあと、カメラがほんの少し写真にズームするだけだ。観客はシルヴィアが写っているのかどうかはっきり分からない。「本当にあれはシルヴィアだったの?」と観客は思いながら、その関心は次の場面に持ち越される。次は、会議場でケラーがシルヴィアに彼女の過去を問いただす場面である。シルヴィアは、写真が若い頃の自分であったことを認める。それを見ながら観客は「やっぱりそうだったのか」と思う。
同じようなテクニックが、終盤(シルヴィアの友人である)フィリップの死体が発見される場面でも見られる。シークレット・サービスのケラーが殺人現場におもむくと、浴槽が血で染まっている。ただし観客には現場がドア越しにチラリと見えるだけで、死体も見えるが、それが誰かはわからない。観客は(フィリップが殺されたかも知れないと勘のいい者は思いながらも)「誰が殺されたのだろう」という興味を持って次の場面に移るのである。
次の場面、ケラーはシルヴィアに会い「フィリップが殺された」と告げる。それを見ながら観客は何が起こったのかを了解するのである。
観客の疑問を持続させるこうした手法は、主体的に考える観客の姿勢を生む。観客をドラマに引き込む手法として、こうしたテクニックが効果的に使われている。
大胆で印象的なカットバック
また、この映画の大きなテーマは、「許し」である。
ケラーは数週間前に事故で妻をなくし、悲しみの淵から立ち直れない。浮気相手の男性を「許せない」「殺してやりたい」と思っている。シルヴィアもまた家族を地雷で失っている。言わば同じ境遇である。だからこそふたりはお互いの気持ちに共感し理解しあうのである。
そのプロセスを描くために、この映画では大胆なカットバックが多用される。印象的なのは次の2カ所である。「(1)自宅にひとり帰ったシルヴィアと、自宅に帰ったケラー」「(2)無心に自宅でアフリカの笛を吹くシルヴィアと、本会議場を点検するケラー」。これらが印象的なのは、唐突なカットバックをあえて挿入してみたり(1)、並列的に描かなくてもよい事柄をあえてカットバックにしたり(2)していることである。
カットバックにこだわり、あえてケラーとシルヴィアを並列的に描こうとする姿勢には、一本筋が通ってブレがない。実は接点のそれほどないふたりを共感させ理解させていくには、こうした手法はとても効果的である。これらの場面といい、バス爆破直前の複雑な緊張関係の手際のよい処理といい、観客の気持ちを盛り上げていく演出の手腕はとても見ごたえがある。一方で「肩の力の抜けた表現」があり、一方で熟達した演出力を見せられると「ああ、うまいなあ」と思ってしまう。
また、バス爆発のシーンの後、シルヴィアの頬に血がついている。彼女は血がついたまま自分の過去を喋る。彼女がくぐり抜けてきた修羅場を暗示する場面である。そして、それをケラーがふいてやることによって「癒し」の象徴的な場面となる。こういうところがとてもうまい。
惜しいラスト/台本の問題
ただ、ラストのラストは、台本としては少し弱いと思う。それはズワーニ大統領に銃をつきつけたシルヴィアが、ケラーの説得によって殺害を思い止まる場面である。
ケラーの説得によって、シルヴィアは殺害をやめる。ケラーは「撃てば大統領は死に君も死ぬ。残される僕はどうなる」と言う。シルヴィアもまた「残されてきた者」であり、暴力による解決では、君(シルヴィア)の抱いてきた悲しみの連鎖は止むことはないぞ、というわけだ。
台本は「溺れる犯人を見殺しにするか救うか」というエピソードを効果的にラストで使用したり、お互いの境遇について共感していくプロセスを伏線としてそれまでにじっくり描いたり、かなり健闘していることは確かだが、ケラーの「僕はどうなる」というセリフに説得力がないので画竜点睛を欠く。単なるセリフで思い止まるのではなく「悲しみの連鎖は止むことはない」ということをシルヴィアが十分に実感するエピソードが前もって仕掛けとしてどこかで挿入されていれば、このセリフは単なるセリフではなく、彼女を思いとどまらせる実感のこもったセリフになるに違いない。
完璧な台本などありえない。本作も、ニコール・キッドマンらの達者な演技と、シドニー・ポラックの老練な演出でそれほど粗も目立たないが、実はいろいろと問題と矛盾をかかえた台本である。
(「偶然に」暗殺計画を知ったシルヴィアは、「偶然にも」反政府勢力のリーダーの恋人であり、そのリーダーは、「偶然にも」シルヴィアの兄と一緒に、今回の事件の直前にアフリカで殺されていた、という設定は、いくら何でも偶然がすぎるだろう)
しかしこうした瑕疵も、映画を通して観客が「考える仕掛け」を作れば「これには何か意味があるに違いない」と思って観客は各々考えるのである。「ザ・インタープリター」は、いろいろと豊かな解釈ができる映画である。こうした点が「大人の映画」の所以である。