淡路島一周をしながら「茄子−アンダルシアの夏」を思い出した。




 最近は体を動かすことに凝っていて、空いた時間ができると自転車か水泳をしている。


 土曜から車中泊、日曜の朝の7時スタートで、「天国のような島」淡路島を自転車で一周した。

 北端部からスタートし、外周部を右回りに一周したが、携行品に不足があり、トラブル時の不安があったため、人通りの少ない南東部の紀伊水道側(由良〜福良間)はパスした。全行程およそ120キロ。休憩・昼食・寄り道コミ7時間弱で全行程を走破した。


 曇は多いが天候は暑くも寒くもなく、この季節にしては走りやすい。ちょうど名産のタマネギの収穫期で、ネギの匂いに島は満ちていた。匂いといえば淡路島は牧畜の島でもあり、いたるところで牛が飼われており、何とも懐かしい田舎の匂いがした。

 この島はパラダイスだ。僕は淡路島のたたずまいが好きだ。澄んだ空気。満ち溢れる太陽。ゆるやかで優しい山々の稜線。緑。田舎。そして海。ずっと海をすぐそばに見ながら走りつづけることができるのがいい。時間や世事から遠く離れて、僕は無心でペダルを踏み続けた。


 走りながら、だいぶ前に見たアニメ「茄子 アンダルシアの夏」という映画を思い出していた。

 「茄子 アンダルシアの夏」の舞台はスペインの片田舎。主人公はロードレースの選手で、折しもブエルタエスパーニャで故郷の地を走る。解雇の声も聞こえる中、自分の未来のために、自分の限界に挑戦し、ひたすらペダルをこぐ主人公。兄を超えるため、元恋人に目にもの見せるため、そして自分のために、故郷からできるだけ遠くへ行こうとする。


 「茄子 アンダルシアの夏」のことを思い出し、その主人公がひたすら自転車をこぐ僕自身と重なったとき、ふいに了解したのだった。

 ああ、僕もまた、できるだけ遠くへ行きたいのだ。

 幼いときもそうだった。僕にとって自転車は宝物だった。それがあれば今まで自分の行ったことのないところへ、自分の力で行くことができたのだ。発見と冒険のアイテムだったのだ。

 小さいときから発見と冒険に憧れていた。そもそも地理の教員になったのも、未知なるものをこの目で見たいと思ったからだった。

 そのことを思い出すと、なぜだか涙が流れてきた。未だ遠くへ行けない自分のふがいなさに対しての涙か、それともあの時から既に何十年もたち、あまりにも遠くへ来すぎたことへの悔悟の涙か。


 おそらくその両方なのだろう。自転車に乗ることは生きることと似ている。自分はどこへ行こうとしているのか。あまりにも遠くへ来すぎたのではないか。そんなことを否応なしに考えさせられる一日だった。


 帰って「ミリオンダラー・ベイビー」の夜の回を見た(以下ネタバレあり)。

 僕は自転車に乗るときは、ピンディング・ペダルというのを使っていて、ペダリングの効率をあげるために、ペダルとシューズが連結されている。疲れてくると、信号などの停止のときにうまく外れなくて、何回か立ちゴケしそうになった。

 ああ、頸椎を打ったら、ヒラリー・スワンクのようになるねんな、と思った。

 淡路島は島だが、ヒラリー・スワンクと僕は地続きだ。