藤川洋子「少年犯罪の深層−家裁調査官の視点から」





少年犯罪の深層―家裁調査官の視点から (ちくま新書)

少年犯罪の深層―家裁調査官の視点から (ちくま新書)


アスペルガー障害の子どもたち


 本書で取り扱われている事例は、公務執行妨害、現住建造物放火、爆発物による殺人、身代金誘拐殺人などである。これらの犯罪から、どんな凶悪な犯罪者たちだろうと想像するが、実際の少年たちはたとえば「美しい女性と一緒に住んでぜいたくな暮らしをしてみたい」といったことを夢想する、子どもっぽい「夢見る少年」だったりする。

 本書で取り上げられている少年たちは、自閉症スペクトラム障害アスペルガー障害)である。アスペルガー障害とは「自閉症の三つの主症状つまり「社会性(対人相互性)の障害」「コミュニケーションの障害」「想像力の障害およびそれに基づくこだわり行動」のうち、コミュニケーションの障害が軽微であるもの(25ページ)」をいう。


 彼らを「凶悪」犯罪者というには何とも気の毒だ。火を見るのが好きで、いろいろなものを燃やして遊んでいるうちに、誤って家を一軒燃やしてしまい、高齢の女性を焼死させてしまった少年。テレビの犯罪報道番組を見て、テレビの再現映像とそっくりな造りのベランダと下着を見たことがきっかけとなって、同じところで三度も下着盗をして捕まった男子中学生など。

 本書では、アスペルガー障害と非行特性の関係を明らかにする。彼らが事件に至った過程と背景をかなり詳しく書きこんであって、事件のあらましをかなり生々しく知ることができる。彼らの姿は我々の周囲にいる子どもたちと大きく変わるものではない。彼らの姿は、僕たちの知っている子どもたちと地続きである。


 「私がこの本を書こうと思い立った動機のひとつは、犯罪や非行を、心理学的要因や社会的な要因だけでなく、生物学的要因(つまり脳の働き)を加えて、もっと相互的あるいは立体的に考える必要があることを示したいということであった。

 諸外国に比べて犯罪の少ない日本では、人々が実体験に則して犯罪を考えるということが難しい。いきおい、メディアの報道に強く影響されることになってしまうが、メディアが流す情報には、その立場上さまざまな限界がある。ニュース性が身上であるから、インパクトのある部分が過度に強調される上、情報提供者がどういう意図や背景のもとにそれを発信したのかの吟味が抜け落ちやすい。

 その結果、偏りがあったり、不正確であったりする情報が、まことしやかに届けられてしまうのである。すなわち、人が「犯罪者」に対して持つイメージは、その人自身がそれまでの人生で直接体験した非常に個人的なものか、あるいはメディアによってデフォルメされたものか、そのどちらかであるに過ぎないと考えておく必要がある(105ページ)」


人は皆「障害」を持っている


 僕は演劇部の顧問である。

 高校生に演劇の基礎的な訓練をするときに、僕は「まっすぐ対称に歩いて見ろ」という。

 簡単なようでいて、これがなかなかできない。成長期は、特に体が対称でない場合がほとんどである。本人はまっすぐ歩いているように思っていても、腕の振りが非対称だったり、足の向く方向が違っていたりする。本人たちはほとんどが「きちんと歩けている」と思っている。自分たちが「きちんと歩けていない」ことに気がつくことによって、自分たちの身体が、障害を持つ人たちと地続きであることに気がつくのである。

 「人は誰もが「障害」を持っているんだね」と僕は言う。


 かつて法然は「人はだれでもが凡夫である」と言った。凡夫とは「仏教の言葉を使えば「煩悩」に縛られている存在のことである」「俗に言えば「アホな人間」と言うことになろうか。欲望に負けや自己主張から逃れられない。本人は賢く振る舞っているつもりでも、あるいは自分の発言には間違いがない、と信じていても、客観的に見ると自己本位の主張や行き方を繰り返している場合が少なくない(注1)」


 そして本書を読んで僕が思ったのは「誰にでも犯罪にむかう可能性がある」ということだ。

 紹介されている非行少年はアスペルガー障害を持ってはいるが、我々の思い浮かべる子ども像から大きく逸脱しているわけではない。筆者は淡々と、しかしより具体的に触法少年たちの動機や背景に分け入っていく。そこには「凶悪」というには遠い少年の姿が浮かび上がってくるのである。


「少年犯罪の凶悪化」は事実ではない。


 藤川はいう。「社会は数例の凶悪事件に触発されて、少年事件に対して非常な危機感を抱いた。被害者遺族の怒りや悲しみにかぶせるようにして、「凶悪化」「凶悪化」と、根拠がよくわからない言説が渦巻いた。無論、改正前の少年法が社会の実情に合っていたか、というと、不十分な点はあった。それらを含めて平成十三(2001)年四月から厳罰化をひとつの柱にした改正少年法が施行されたのである(182ページ)」

 藤川は、家庭裁判所調査官として、少年たちに接した実感と数々のデータから、メディアがしきりに報道する「少年事件の凶悪化」「虐待の深刻化」について異を唱える。少年の「凶悪」事件は決して増加していない。

 「小学生による殺人事件が一件あったからといって、「低年齢化」を言うのはあまりにも無理がある。実情を言えば、ここのところ非行少年の年齢は以前に比べて高くなっている(犯罪白書)。小学生による殺人は、以前はほとんど報道されなかっただけで、昔もあった。刑事責任がないゆえ、詳しく報道されるということはありえなかったのである。(197ページ)」


 厳罰化の前に、生物学的要因を加えたうえで、きちんとした犯罪に対する分析を行なって、更生プログラムと教育を充実させていかなければならない、という筆者の主張は、誠に説得力がある。それは、家裁調査官としての実感や実践に基づいた、更生や教育に対する確固とした作者の姿勢や、少年たちを理解していこうとする姿勢が文中から見られるからだ。社会的なアプローチだけではなく、精神医学の面からのアプローチや、脳医学の方面からのアプローチなどを行なうことによって、事態をより正確にとらえようとする姿勢に感心してしまう。

 これは、学校現場の教師も見習わなければならない姿勢であると僕は思う。


(注1)阿満利麿「無宗教からの「歎異抄」読解」ちくま新書 2005