保坂和志「小説の自由」





 さらに小説を書きなおす。いらいらするほどスピードはあがらない。しかし、よく考えれば昔からそうだった。小説はびっくりするくらい時間がかかる。保坂和志「小説の自由」にも、こんなくだりがある。


 「小説を書くというのは本当に面倒くさい作業で、読者の側はいちいち気にしていない距離や方向を−全部とまでは言わないが−一通りは気にかけて書いていかなければならない。だから思いがけない些細なところで引っかかるから、一年で1000枚という、一日に換算すればわずかでしかないはずの枚数が書けない」(170ページ)


 学生時代の僕は「書けない」ことがとても苦痛で、それが自分の才能のなさに起因すると思っていた。ところが「小説の自由」を読むと、そうしたことが仕上げるための当たり前の葛藤であることが分かる。

 保坂の言葉を借りると「小説を書くということは、自分が今書いている小説を注意深く読むこと」である。他の人の小説も、消費するために読むのではなくて、もっとじっくり読めば、その読書の姿勢に報いるだけの収穫があることが分かる。

 我々はしばしば読書を「読んだ」と言わんがために行なう。もちろん早いサイクルで消費して次にうつることも必要だとは思うが、自作に対してそうした態度を取っていたのでは、満足するものなど書けるわけがない。そのことがよくわかった。


 「小説の自由」は、示唆に富む本である。僕は、この本を最初から読まない。パラパラと拾い読みをする。読み終わるのが惜しいからだ。そういう読み方があってもいい。ちょうどキリスト教徒が聖書に向かい合うように。それこそが消費志向でない読み方だ。



小説の自由

小説の自由