劇団維新派「風景画」


 (9/23のエントリーより続く)さて、劇団維新派の芝居である。
 前回の犬島公演「台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき」に強く感銘を受けたので、実は今回、かなり期待しての観劇だったのだが、残念ながら、その期待は満たされなかった。



 (舞台となった犬島・中の谷入り江)


 今回は大がかりな舞台を作らないということだったので、ならば「大がかりでないこと」にどんな意味があるのかということを考えながら芝居を見た。野外なので照明効果もなければ、声を拾うマイクもない。干潟(海水は引いていなかったが)は、空間としてはだだっ広く、役者の存在感はあまり伝わってこない。役者は不安定な泥土で足をとられがちで、自由に動けず、役者の動きを制約してしまう。


 ならば「制約すること」に意味があるのかも知れない。維新派は元来そうである。「人形」はもっとも理想的な役者。「制約する」ことによって、観客の想像力が逆に刺激されたり、役者の思ってもみなかった身体性が、かい間見えることもある。


 また、身体のパーツの名称を短く何度も呼ぶ場面があったが、やろうとしていることは「解体」と「再構成」ではないのかとも考えた。解体されたパーツパーツが大きな「風景画」の要素。ピカソなどがやったように、パーツを再構成して、絵画や演劇のルールをいったんチャラにしたうえで、新たな視点から斬新な大きな絵を織り上げようとしているのでは・・・・。


 しかし、全体を貫く物語やモチーフが希薄でピンとこない。逆に言えば、解釈する余地が十分にあり、それはそれで面白かったが、あまりに抽象的すぎ、かつ「表現の力」を十分に感じることもできず、オイラには、この芝居がどういう芝居か、はっきりと像が結ばなかった。


 いやもしかしたら解釈を必要以上に探し過ぎているのかも知れない。青い空と遠くの方の島々を背景にして、白塗りの役者たちを地上に降り立った聖霊たちに見立て、そこに生じた非現実的な風景を、ぼんやりと眺める、その瞬間を楽しんだらいいのかも知れない。