坂本勝「はじめての日本神話−古事記を読みとく」ちくまプリマー新書


はじめての日本神話―『古事記』を読みとく (ちくまプリマー新書)

はじめての日本神話―『古事記』を読みとく (ちくまプリマー新書)


 古事記入門用の新書。あらすじ紹介もついて、オイラのような初心者にも分かりやすい一冊。興味深く読めた。この本を手に取ったのは映画「祝の島」を見たからだ。この映画は、「原発=現代文明」の対極に「祝島=共同体」を置き、現代のありようを静かに批評する。「古事記」においても、3.11以後を考えるなら、「自然」と「文明」とのありようを考え直すという読み方になる。


 古事記が書かれたのは712年(ちなみに日本書紀が720年)。歴史書の編纂は、国家体制に正当性を与えるための事業。倭国では、天皇中心の中央集権国家が築かれようとしていた時代。「古事記」「日本書紀」は、神話や伝承を、天皇の歴史に沿って大系づけようという要請に応えたものである。
 当時はグローバルな時代だった。先進地である中国から、漢字や仏教をはじめ、さまざまな生活様式や風習、技術などが流入した。都の建設も中国を真似て行われた。めまぐるしい変化の中だからこそ、あえて古きものに関心が向かったのである。それは、倭国アイデンティティを確認する作業に他ならない。


 人間も自然の一部である


 いにしえの昔から変わらぬもの、それは「自然」である。アニミズムの国である倭国の神話は、「自然」と無関係ではいられない。古事記によると、神武天皇となるカムヤマトイハレビコの祖母のトヨタマヒメは、八尋のワニ(鮫)だったという。天皇の系譜にすらワニがいる。自然は畏怖すべき存在。いにしえから、いかに自然を強く意識していたかを、伺い知ることができるだろう。


 「身」という言葉がある。命の宿った、動物や人間の肉体を表す言葉である。日本語では、草木の「実」、肉や魚の「身」、人間の「身」を区別せずに「ミ」という言葉で表した。草木も人間も動物たちも、同じ「ミ」を分け持つ「身内」的関係としてつながっていると考えたのである。人間も自然の一部であるという考え方がここにある。


 なぜシコメは山葡萄やタケノコを食べるのか


 古事記に「黄泉の国」というエピソードがある。死んでしまった妻を追いかけて、イザナギは黄泉の国へ。いくら待っても出てこない妻に、業を煮やしたイザナギは、妻の様子を覗き見てしまう。すると、その体にはウジがたかってゾンビ状態。恐ろしさに思わず逃げるイザナギに、妻は「私に恥をかかせたね」と言って、黄泉の醜女(シコメ)を遣わせて後を追わせる。
 逃げるイザナギが、髪飾りのつる草を投げると、山葡萄になる。シコメはそれを拾って食べる。その間に必死で逃げるが、なおも追ってくるシコメに、今度は櫛を投げると、それはタケノコに。それらをシコメが食べている間に、男はまた逃げた・・・・・。


 シコメの目的は、イザナギをつかまえることにあるので、不思議な場面である。なぜシコメは山葡萄やタケノコを食べるのか。目もくれずに追いかければいいではないか。
 本書にはその答えが書かれている。柔らかな山葡萄は「肉」を、固いタケノコは「骨」を想像させる。つまり死体の代替物である。ゾンビであるシコメは、山葡萄とタケノコを「ミ」とみなしたから立ち止まって食べたのだ。


 「古事記」は、我々の内なる自然をあぶり出す。これに対し、文明は「死」を遠ざける。原発安全神話こそ「遠ざけられた死」である。しかし、3.11によって、自然の禍々しさを強烈に意識させられた。人間も自然の一部であり、自然と深くつながっていることを。そして自然はときに凶暴に我々に牙をむくことを思い出させてくれる。
 「古事記」は、そうした我々の感覚の延長にある。「身体」を忘れ「自然」を忘れがちな現代人が、「古事記」を読むことで、外なる自然や内なる自然を意識するチャンネルを開けることができるなら、神話を読む意義は大いにあるとオイラは本書を読んで思った。


古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)