祝島のことを高校生に語る


 高校地理に原子力問題について触れる箇所がある。そこで高校生に上関町の祝島を紹介した。島の人たちが反原発運動を「続ける」ことができるのはなぜか、理由を考える。社会運動には続くものと続かないものがある。下火になり消える運動も多い。ところが祝島では、30年間、1400回のデモ。なぜ続くのだろう?


 答えは決まっている。人々の結びつきの力である。祝島には共同体が残っている。皆で協力して生業を営んできた長い歴史があるから、反対運動にも取り組める。それに、原発に賛成しお金をもらったとしても、島の暮らしがなくなれば、もっとお金が必要になる。少しのお金の引き換えに、自分たちの暮らしが失われるのはいやだ。多くの高齢者は、だから反対している。


 祝島のような村落共同体は、かつてこの国にはどこにでもあったはずなのだ。豊かさと引き換えに、高度経済成長以後、そうした結びつきを必要以上に破壊してきた。その結果、この国に生み出されたのは、茫漠たる不安をかかえたまま立ちすくむ無力な人々だったのだ。


 石渡嶺司・山内太地「アホ大学のバカ学生」(光文社新書)という本を読んだ。タイトルとは裏腹に、真面目に大学のあり方を論じた本で、例によっていろいろと触発されたのだが、こんな下りがあった。
 「現在の20代の若者は、経済力よりも人間関係を重視するアンケート結果が出ている。給料の多い会社よりも家庭的な会社がいい、人間関係を重視する傾向が、二〇〇三年頃から増えた。つまり、どれだけ豊かな人間関係を持っているかで、人間としての価値が決まる、というわけだ。一人でいる人間はダメなやつ、価値がないやつと言ってもいい。これは、人間関係の流動化、人間関係の規制緩和自由主義化が進んだためである。(148ページ)


 「人間関係の規制緩和自由主義化」という言葉が気になった。本書の中でも紹介されている土井隆義「友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル」(ちくま新書)で使われている言葉。何と的確な表現。学校の人間関係もまた、社会の変化と無関係ではないのだ。教科書を薄くし、校則を緩くし、進級規定を緩くし、休日を多くし、人間の密度を緩くした高度経済成長期以降の「ゆとり」の流れは、学校をとりまく子どもの人間関係のありかたも徐々に変えた。自由主義グローバル化は、その総仕上げ。「連帯」などという言葉は、高校ではもはや死語である。

 
 祝島はいつしか少数派になり、グローバル化や中央集権、効率優先という価値に包囲された。上関原発の水面埋立も始まった。だが「3.11」が起こった。今までの我々の常識や価値基準が問い直される転機になった。今まで善しとされていた常識や価値基準が、実はマイナスの意味を持っていることに気づかされた。我々は失ったものを取り戻さなければならない。もちろん学校も例外ではない。


 授業で教えた生徒の中には、被爆者の証言を集めたドキュメンタリー「ヒロシマナガサキ」を見た高校生がいた。ふと思いついて「どうせ君も、(戦争の悲惨さを)しばらくたつと忘れてしまうんだろう?」と挑発してみた。彼らもまた、オイラに無表情を装ってみせた。


映画「ヒロシマナガサキ
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120125
映画「祝の島」
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120112/1326385567
http://d.hatena.ne.jp/furuta01/20120114


アホ大学のバカ学生 グローバル人材と就活迷子のあいだ (光文社新書)

アホ大学のバカ学生 グローバル人材と就活迷子のあいだ (光文社新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)