小林哲夫「高校紛争 1969−1970」中公新書


高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)

高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)


 1969年から1970年にかけて、全国の高校で、高校生の政治活動が盛り上がった。オイラの高校時代は、それから数年あとの1977年〜1979年。すでに学校は沈静化していた。オイラの時代は、すでにサブカルチャーの時代が息づきはじめていた。映画「宇宙戦艦ヤマト」「スター・ウオーズ」が公開され、ファーストガンダムの最初の放送が始まった。当時はSFに関心があったせいもあり、これらを熱心に見ていた。


 オイラは個人主義的な高校生だったが、学校をまとめる力量を持った高校生は、オイラの時代でも、確かにいた。高校生の力量は、現在とはくらべものにならないほど高かった。オイラの出身校では、当時、文化祭でのクラス演劇があったり、かなりハードなファイアストームが伝統として残っていた。高校生がその力量を発揮できる場面は、もっぱらこうした校内の自主活動の「健全な」場になっていた。


 リアルタイムでその現場にいたわけではないので、高校紛争の実相を知るわけではないが、先輩や教師から当時の様子を聞き、ぼんやりとした憧憬があった。集会やデモだけでなく、学校をバリケード封鎖し、卒業式を妨害し、機動隊に火炎瓶を投じるなんてスゴいと思った。安保改定闘争、ベトナム戦争反対、沖縄返還闘争。これらを高校生が語ったのだ。当時のオイラには、先輩たちがとても大きく見えた。


 高校紛争は炎のように一気に盛り上がり、1970年以降は、嘘のように引いていった。本書は、その全貌を、資料を詳細に集め、丹念に関係者の証言を拾い集めた労作である。一言で高校紛争というが、本書を読むと、いろいろな闘争の形があったことがわかる。学校側が厳しく対応した高校もあれば、生徒側に理解を示した学校もあった。処分された活動家の高校生もいれば、ある高校ではまったく処分もなかったという。


 特筆したいのは、教師と高校生の連帯の例である。(これは高校紛争前史だが)高知・室戸高では、1959年、勤評闘争を、生徒と教師がスクラムを組んで戦った。また沖縄の米軍基地闘争でも、教師と生徒が一緒にデモ行進した。こういう形の高校紛争もあったのだ。
 現在、公立学校における、日の丸君が代の卒業式不起立の問題が波紋を呼んでいる。今この問題は、教師vs行政という問題でしかない。生徒や保護者が問題を共有することができたら、もっと大きな広がりを持つのに、と思う。


高校生の活動に向かうエネルギーと実行力の高さには敬服すべき


 高校紛争は、肯定的なものとしてとらえられない部分も多い。当時の高校の教育機能は、高校紛争によって失われたところが多かったし、若気のいたりで感情のまま、借り物の硬直化したイデオロギーをふりかざしただけの活動家も多く存在しただろう。だが、今と比べると、高校生の活動に向かうエネルギーと実行力の高さには敬服すべきであると思う。


 本文の引用から。『「政治活動の禁止」は実にこわいフレーズである。「活動」できない以上、「政治」を考えることをやめてしまう。政治に興味を持たなくなる。こうなると、社会に対して思考停止状態になりかねない。社会に関心を持たせない、もっと言えば、高校生が批判的なものの見方を身につけることを妨げる。そうなりはしないか。「禁止」という発想は、人格形成、精神的成長という点からみれば、きわめて危険である。もちろん、ここでいう「政治活動」は、高校紛争時に見られた反体制運動に限らない(280ページ)』


 今のほとんどの高校生は、政治意識を持たない。そもそも今の社会や、教師や親、学校のありかたを批判的に見るというスタンスも力量もない。意見表明もしないし、できない。そしてそれは教師も同じだ。社会に関心を持たない国民を作るという目論見は、とてもうまく完成されてしまっている。


 オイラには、それが日本の国のためになっているとは、到底思えない。