原田正治「弟を殺した彼と、僕。」ポプラ社


弟を殺した彼と、僕。

弟を殺した彼と、僕。


 発行は2004年。ただ今絶版であるが、人権を考えるすべての人に重要な本。帯にはこうある。「読み終えて吐息が漏れた。大事な本だ。そして凄まじい本だ(森達也)」読了後、その言葉が掛け値なしであることを実感した。何と言っても、この本の著者である原田正治さんの死刑に対するスタンスが、我々の固定観念を覆す。彼は、殺人の被害者遺族でありながら、加害者の救済を申し立て、死刑に反対してきたのである。


 原田正治さんは、1983年に起こった半田保険金殺人事件で殺された原田明男さんの兄。弟の明男さんは、トラック事故に見せかけた保険金目当ての殺人に巻き込まれ、殺されてしまった。加害者は、明男さんの雇用主である長谷川敏彦ほか3名。殺人はすぐに発覚せず、原田さんと長谷川とは事件後何度も顔をあわせている。そしてだまされる。社交的で優しいいたわりの言葉をかけられた原田正治さんは、長谷川を信用して、不渡りの手形をつかまされてしまうのだ。その後長谷川は、逮捕され、死刑判決を受ける。他に2名殺していたのだ。当然原田さんの心を占めるのは「憎しみ」である。初公判のときの心境を、原田さんは次のように述べている。


 「人は、これほどまでに他人を憎いと思えるものなのか」
 我が心でありながら、自分ですら知らなかった感情があることを知りました。人を心底憎悪する、という気持ちを生まれて初めて味わいました。・・・・僕が裁判所に来たのは、「事件の真相を知りたい」「弟がどのように殺されたのか真実を明らかにしてほしい」などといった気持ちではありません。そのような冷静な思いは爪の垢ほどもないのです。ただただ、このやり場のない気持ちを長谷川本人に何とかぶつけられないだろうか、その激情のみでした
(62ページ)。


 悪いことは次々に起こる。報道関係者に追いかけられたり、一度は得た保険金を返還請求されたり、裁判の傍聴で欠勤が続き、勤務先からは白い目で見られ、仕事のミスで薬指を切断してしまったり。酒に溺れ、夜遊びにふける生活。夫婦関係は最悪。「事件さえなければ」「長谷川君さえいなければ」あの頃を振り返り、原田さんは憎しみの感情に支配されていたという。死刑判決が出ても、原田さんの心は癒されることがなかった。


 一方長谷川は拘置所キリスト教に改宗し、悔い改めようと原田さんに何通もの手紙を出す。最初は開封もせずに手紙を捨てていた原田さんだが、ふとしたきっかけで手紙を読み始めたことから、長谷川との交流が始まる。そして何と、原田さんは、拘置所の長谷川に会いに行くのである。


 「どうして肉親を殺した相手に会いに行こうと思ったのですか」
 あるいは、
 「最初は殺してやりたいほど憎いと思っていたのに、何がきっかけで加害者に面会に行ったのですか」
 と聞かれます。・・・・僕は、彼に直接聞きたかったのです。
 「なぜ、うちの弟でなければならなかったのか」
 いいえ、聞きたかったのではなく、こう言いたかったのです。
 「うちの家族はこの十年、平凡な日常では決して味わう必要のない煩わしさと対峙し、家庭生活にも波風が立ってしまった。長谷川君が殺したのが弟でなければ、僕たちはこんな十年を過ごさなくてもよかったではないか。どうしてうちなのだ。どうして弟なのだ!」
 僕の悲痛な叫びを正面から受け止めてくれるのは、長谷川君しかいないのではないか、という漠然とした予感がありました
(143ページ)。


 長谷川は被害者のことを思いつづけ、祈り、苦しんで償おうとしている。孤独のなかにあった原田さんには、長谷川だけが、自分の心に敏感に反応し、自分の一挙手一投足に関心を抱いているように感じられたのだ。「被害者遺族のことを考えて死刑はあるべきだ」と思っている人が多いが、それは他人事だから言えること。死刑になっても癒されることはない。自分が立ち直るために、長谷川と交流する。原田さんはそう考えた。だから長谷川の死刑を望まない上申書を最高裁に提出し、確定死刑囚の接見や親書の発受を求める運動を始めたのである。原田さんは「死刑に反対する被害者遺族」なのである。もっとも、結局2001年に長谷川敏彦は死刑を執行されるのであるが。


 僕は、制度としての死刑を廃止すべきだ、と声高に言うだけのものを持ち合わせてはいません。しかし少なくとも自分の体験から、「被害者感情」によって死刑をすることに疑問を持ち始めていました。死刑は、人を殺すことです。「被害者が望むから」といわれると、「お前は、刑務官が首に縄をかけて人を殺すことを望む人間なのだ」と言われている気がして、打ち消したくなります、僕は、自分に貼られている被害者遺族のレッテルを考えるとゾッとしました。そのレッテルには「心の中が憎しみだらけで、復讐を望んでおり、加害者が殺されることを待っている」と書かれている気がするのです(161ページ)。


 死刑廃止の運動をしている人たちは、いつも、
 「あなたたちはそのような運動をしていますが、被害者のこと、被害者の家族のことを考えているいるのですか」
 と反発されるそうです。死刑を考え、公に死刑に疑問を投げかけたことのある人は誰でも、「被害者のことはどうなのだ」と言われ、口をつぐんでしまうのです。しかし、僕から見れば、「被害者のことを考えているのか」と抗議する人もまた、僕のことなど一度も考えてくれたことなどない、と言いたい気持ちなのです。僕を集会に読んでくれている主催者の人たちに対しても本当の僕の気持ちを理解しようとしているのか、疑念が拭えませんでした
(163ページ)。


 本書を読むと「被害者遺族は極刑を望んでいる」という単純な理解が、浅薄なものであることに気づかされる。「被害者遺族」というのも、世間が原田さんに貼ったレッテルである。世間やマスコミは被害者遺族の側に立ったつもりで、加害者に極刑が下されると快哉を叫ぶ。だが被害者遺族とて加害者が死刑になったからといって、癒されるとは限らない。人間は多面的で複雑だ。ひとりひとり違う。そうした繊細で複雑な心の動きと心の襞を、丁寧に書き残していこうという、誠実で粘り強い本書の書きぶりには、心から目を見張らされた。