面白さへむかう姿勢


ピタゴラ装置 DVDブック2

ピタゴラ装置 DVDブック2


 前のエントリーに書けなかったことを正直に書く。


 「ピタゴラ装置」をこのブログで紹介しようと、「ピタゴラ装置とは、アメリカの漫画家ループ・ゴールドバーグが発案した表現方法で云々と書きかけていたところ、たまたま、「ピタゴラ装置DVDブック2」に「ビー玉は、ちっともうまく転がってくれない」と題する一文の中に、オイラに宛てて書かれたとしか思えない下りを見つけてドキリとした。


 「・・・・最近webで、「ピタゴラ装置とはゴールトバーグマシンの一種で云々」というような解説風の文章をたまに見かけることがあります。そのたびに、私は小さな違和感を覚えずにはいられません」


 (あ、コレハオイラノ所為ソノモノダ)


 「誰もが、そんなことを知る以前に、あのような連鎖する装置に近いものを子供の頃に夢想したり、それが高じて、消しゴムや本など手近なものを駆使して稚拙ながらも連鎖反応を試したりしたことがあったと思います。その時の面白さに向かう気持ちには、濁りも余計な知識もありません。ただただ、純粋に連鎖する動きを作って試してみたいだけです。その生き生きした所為に比べて、それをゴールドバーグマシンの一種、と名前を持ち出し、あたかもそれに対して理解が済んでいるかのようなふるまいは、何かとてもつまらないことのような思えてしょうがありません。これは、なにもピタゴラ装置に関してだけではなく、もっと広い事象として言っているのです。それは、誰もが持っている「言語化されていない面白さを素直に感じる能力」を自ら放棄することにもなり、世の中の文脈に依存した生き方に繋がってしまうと感じるからです(「ピタゴラ装置DVDブック2「ビー玉は、ちっともうまく転がってくれない」より)」


 まさにその通り。言葉もない。自分の振る舞いを省みて、オイラは深く反省した。ループ・ゴールドバーグが発案した云々の下りは割愛したのはいうまでもない。


 いくら知的で面白そうな内容であっても、既知の枠の中にほうり込み、提示し処理して一丁上がり、では、「面白さ」など伝わるわけもない。そもそもオイラがしたかったのは、ブログをそれらしいコトバで埋めることではなく、思ったこと感じたことを、ストレートに表現し伝えることだったはずだ。オイラは何をしているのだ、と思う。教育でも演劇でも、それらしい、わかったようなことを言ったり書いたりして、批評家ヅラして高みに立っている、そんな自分がそこにいる。イヤになる。


 面白いものへ、まっすぐ向かう気持ち、そしてそれを実現しようとする意志、そして粘り強く努力する、という、当たり前のことを大切にしなければと、改めて思う。そして、そのことで、オイラの周りの現実を、少しずつでも変えていこう。無心に転がり続け、奇跡を起こすビー玉のように、思い通りにならない、不自由で理不尽でやるせない現実に、どこかで風穴を開けていこう、そんなことを思った。