「SAPIO」2015年2月号(小学館)


SAPIO(サピオ)

SAPIO(サピオ)


 雑誌「SAPIO」を久しぶりに買う。なかなか読みごたえがあって、この雑誌を見直した。。いや、皮肉だけではなくホントの話である。


 2015年2月号、メインの特集は「大提言特集〜これで、日本は甦る〜」。戦後70年とひっかけて「わが国を再生するための70人の知恵」とサブタイトルがついている。メインの特集に寄稿しているのは次の人々。


 1李登輝
 2櫻井よしこ
 3中西輝政
 4エズラ・ボーゲル
 5井沢元彦
 6黒田勝弘
 7落合信彦
 8ジョセフ・ナイ
 9佐藤優
 10アントニオ猪木
 11ジャン=マリー・ル・ペン
 12中野剛志
 13矢部宏治
 14佐伯啓思
 15内田樹
 16片山杜秀
 17高橋源一郎
 18大前研一
 19橋爪大三郎
 20水野和夫
 21藻谷浩介
 22原英史
 23佐藤愛子
 24弘兼憲史
 25古市憲寿
 26安藤忠雄
 27中村修二
 28近藤誠
 29岡野雄一
 30片田珠美
 31前川惠司
 32亀和田武
 33小谷野敦
 34内藤誼人
 35矢作直樹
 36佐野眞一
 37筒井康隆
 38五木寛之


 これで38人。
 どう数えたら70人になるの? ひょっとして他の特集やレギュラーページの執筆者や本誌編集部も入れるの? とまあどうでもいいことだが。


 ま38人しかいないとしても、これだけの論客が並ぶとなかなか壮観だ。櫻井よしこ井沢元彦などの記事が見られたり、天皇憲法改正に関する論考が載るのはライトウイング雑誌の面目躍如。だが、それらに混じって、矢部宏治(「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」の著者)、内田樹高橋源一郎など、リベラルの立場の論客も寄稿していて、かなり視野が広い。海外からは元台湾総統李登輝、フランスの右翼政党「国民戦線」の創始者ルペンなど。安藤忠雄アントニオ猪木もいる。なかには失笑してしまうような極論もあるが、専門的かつ考えさせる意見も多く、広いジャンルを通覧するには、ある意味大変参考になった。


 小説家の筒井康隆の寄稿に目が止まる。「孤独感の先には多幸感が待っている」老人問題に関する寄稿である。筒井康隆も80歳になったのだ。筒井は言う。年を取ると多幸感が訪れて愉しくて愉くてたまらない、と。


 そういえば関西ローカルでは有名なラジオパーソナリティ浜村淳(80)が、自身の番組で「年を取ることは恐怖ですよ」と言っていた。そうか年を取ることは怖いのか、そう実感した矢先だったので「年を取ることは愉しい」という言葉に、オイラはとても気がラクになった。年を取ることを不幸と考えるのではなく、ワクワクできることと考えることができるなら、オイラはこの先生きていける、そんなことを思った。


 そして特筆すべきは、筒井の文体である。さすが文学者の文章。味もそっけもないビジネスライクな文章が巷にあふれている昨今、ちゃんと文体がある。句点が少ない独特のリズム、漢字の使い方に味がある。そしてとても読みやすい。こうした力の抜けた味のある文章に出会えたことで、オイラはすっかり嬉しくなってしまったのだった


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 「孤独感の先には多幸感が待っている」筒井康隆


 老人はまず孤独に耐えなければならない。そして孤独に馴れなければならない。最初から自分は孤独でいる方が好きという人や、だれにも邪魔されず、やっと趣味に打ち込めるので有難いという人もいるから、こういう幸せな人は除外しよう。
 孤独を感じるのはたいてい仕事の第一線から退いて暇になった人である。しかし最近では退職したからといって昔の隠居のようにぶらぶらして暮らすことはできなくなっている。遊んでいては生活費に困るからだ。
 しかし老人に与えられる仕事というのは夜間の警備や清掃を始めとする概ね孤独な仕事であることが多い。つれあいに先立たれて独身になった人の孤独感など、想像にあまりある。
 孤独さに耐えかね、昔の仕事仲間、同僚、後輩などといった知人に電話をしたり、逢おうとか飲みにいこうとか誘う人もいるが、これはやめた方がいい。相手は現役で多忙だ。たいていはその人の迷惑になる。そもそも自分だってそんな迷惑な電話や誘いに困惑した経験がある筈なのだ。そっけなくされて始めてそんな昔の体験を思い出したりもする。そしてより深く孤独感に陥ってしまう結果となるのだ。
 居酒屋などへ一人で飲みにきている老人がいる。ひとりでこっそり飲んでいる分にはいいのだが、近くにいる人に話しかけたり隣席の会話に割り込んで自分の意見を言う人がいる。これもやめた方がいい。例えば巨人ファンばかりの集る店で盛りあがっているところへ同調して割り込むのでない限りは、たいてい迷惑になるからだ。黙って飲んでいる老人の姿というのはなかなか様になっていることが多いから、近くにいる若い連中が何者かと興味を抱いて話しかけてくれるという僥倖があるかもしれない。この場合はまあ、格好のいい穏やかそうな老人に限られるが。
 そんなことでもない限りはじっと孤独に耐え続けているのが、筋の通った老人の態度というものである。家事、読書、テレビ、ビデオ観賞、庭の手入れ、ひとりでできる新たな趣味を見つけてもいいし、することはいくらでもある筈だ。
 どうしても誰かとコミュニケートしたいというのであれば町内会で何かの役をしたり老人会に加わったりすればいいが、基本的に老人というのは我が儘なのでどうしても他者とぶつかってしまう。あなたが仲良くしようとしていても相手が突っかかってきたりもする。ごたごたを避けるという意味からはあまりお勧めできない。
 こうした孤独な時機を過ぎると、文字通りさいわいなことには多幸感というものが訪れてくる。これは何故かというと、まだよくわかっていないらしいのだが、ひとつはどうやら、自分はちゃんと仕事をしてきたという達成感によるものらしい。たいした功績はあげていなくても、人並にやってきたというだけでも達成感はあるようだ。
 さらにこれは、死を前にした人の不安を除くための機能が働くのではないかとも思われている。脳内からドーパミンとかセトロニンとか言う物質が排出されるのだろうか。とにかく昔のいやな思い出は次第に忘れられ、愉しかった思い出だけが蘇ってくるのだからありがたい。
 小生もついこの間まではさまざまな過去のいやなことを思い出して、そのために眠れず眠れないままさらにいろいろと思い出して腹が立ち、ますます眠れぬという悪循環に陥っていたのだが、最近で愉しい思い出ばかりが蘇るようになってきた。長生きしたことを有難いと思える年齢に達したのだから尚さらであろう。
 老人ホームでいつもひっそりとひとりでいる老婦人に、退屈ではないかと訊ねたら、こんな意見が返ってきたという。
 「これまでの愉しかったことを順に思い出しているだけで、もう愉しくて愉しくて、時間が足りないくらいよ」


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