「Love&Peace」自作解説


 台本には、作者の思いや精神史が地層のように織り込まれている。城北高の「Love & Peace」とて例外ではない。創り手の知見の切れはしや、どろどろとして言葉にならないそのときの無意識、抽象的な観念のカケラの積み重ねなどから、作品は成り立っている。その重なり具合は、作品を作った本人すら説明できない。自作の解説は難しいのだ。


 そもそも作品は上演されたものがすべてである。解釈は観客が行うもの。上演の後で作者がああだこうだと言うのは蛇足の極み、潔くない姿勢だと思う。だがそれは承知の上で、自作の補足解説をおこないたい。これは、もう少し理解されたいというオイラの煩悩から出た悪あがきであるとご理解されたい。


 「Love & Peace」には「今」が織り込まれている。2015年9月、平和安全法制が国会で論議され、混乱のなか成立した。とうとう日本は集団的自衛権を行使する国になってしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。そうした思いがベースにある。


 人は定期的に戦争をする。非合理的かつ非論理的なバカな行いを、人は繰り返し選択する。なぜそんなことをするのか。そんな問いに対し、明解な解答をオイラに与えてくれたのは、哲学者の内田樹だった。内田は言う。戦争を引き起こす最大のエネルギーは、鬱積したルサンチマン(=怨念)であると。


 具体例をあげよう。太平洋戦争の原因は、その約70年前の戊辰戦争にさかのぼるという。戊辰戦争の「賊軍」(会津藩など)とその出身者は、明治政府から徹底して排除・差別された。これに対するルサンチマンをかかえた人々は、多く陸軍に入った。なぜか。賊軍出身者でも、成績さえよければ上に行けたのが唯一の組織が「陸軍」だったからだ。板垣征四郎石原莞爾東条英機…賊軍の子弟だった彼らは、陸軍での出世を目指しつつ、同時に長州中心の明治レジームの打倒を求めた。彼らは、長州閥に支配された政府に反発し暴走し、結果的に戦争を拡大していったのである(注1)。


 そしていま、日本を戦争に向かわせているものの正体もまた、太平洋戦争に「負け」「名誉が失われた」という戦前の支配階級の「ルサンチマン(=怨念)」だ。ルサンチマンを晴らすのに、論理など必要ない。ゆえに安倍政権は反理性的で性急だ。民主主義の意思決定のシステムを尊重しない。強引に平和安全法制や改憲を推し進め、時には、あからさまに憲法や民主主義の手続きを軽んじてみせる。故意に戦後民主主義を乱暴に扱い、貶めてみせる。子どもじみた破壊的な情念が感じられる。


 こうした政治のありように呼応するかのように、長引く不況や格差社会、社会の不安定化などによって生み出された人々のルサンチマンが、至るところにあふれ、社会を根底から覆したい人々の怨嗟が、安倍政権と共鳴しあっている。生活保護バッシングやヘイトスピーチは、その表れだ。そこには、論理も合理性もへったくれもない。共生の姿勢もない。ただ社会システムそのものへの破壊的な衝動に駆られているのみだ。

 
 ルサンチマンは、人間理性によって統御できるものではない。放置すれば災いをなす。そのことを日本人は昔から理解していた。平将門菅原道真のように、非業の死をとげたものの魂は、死後も憑依し、天変地異や災厄をもたらすと考え畏怖した。古代の人は、災いをなす魂を「怨霊」と呼んだ。怨霊を呪鎮することは、一般的に行われていた。塚や神社を作り祈る。非業の死をとげた菅原道真平将門の怨霊は、こうして呪鎮された。


 現代は、ルサンチマンが放置されている時代である。我々は、呪鎮の作法を持たない。霊的なものの声に耳を傾けるというふるまい、発想、そしてコトバがない。呪いも怨霊そのものも存在しないと思っている。だから世界にあふれるルサンチマン(=怨念)を感知することができなくなっている。


 オイラはふと思った。古代の人が安倍政権を見たらどう思うだろうか。怨霊に支配され、この世に災厄をもたらそうとしている存在のように映るかも知れないな、と。
 ルサンチマンに彩られている安倍政権は怨霊のようだ。現代に怨霊が闊歩するのは、現代に祈りや供養が足りていないせいだ。今だからこそ祈りが必要だ。オイラの中で「「ルサンチマン=安倍政権=怨霊」を呪鎮する」という発想が生まれた。その唯一の希望が「祈祷部」なのである。それが「Love & Peace」の中核になっている。


 現代には祈りや供養が足りないというのは、突飛な指摘だろうか。オイラはそうは思わない。現代に息づくもうひとつの「荒ぶる神」=「原発」も、きちんと祀り、丁寧に処していれば、決して事故は起こらなかった。祈りが忘れ去られているというのは、物事にきちんと向き合い、そのものを思い、行うべきことを誠実に実行するという作法が忘れ去られているということだ。緊張が失われているということだ。その対極が「誠実に祈ること」である。


 主人公たちは「ロウソクで仏像を見る古代の人の作法」の中に、霊的なものを見ることで、こうした祈りの意味を発見する。祈りの対象は、祟りをなす「ヘビ」や「老猫」である。もちろんこれらは事故を起こした原発や、ルサンチマンに彩られた政治家への隠喩なのである。


 (注1)雑誌SIGHT62号(ロッキング・オン、2015)内田樹×高橋源一郎の対談より